Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

政治家は裏金つくってんのに、行儀よく確定申告なんて出来やしなかった。

僕はフミコフミオ。先ほどからイータックス(https://www.e-tax.nta.go.jp/)で確定申告作業をはじめた小市民である。ところがhttps://www.e-tax.nta.go.jp/において「裏金」記入欄が見つからず作業が頓挫したため、気持ちを落ち着かせるために、こうしてブログを書いている。確定申告作業の進捗率は30%程度だろうか。道は長い。参考までにあげておくと、岸田フミオ内閣の最新支持率は14%である。岸田内閣の支持率14% 自民党の支持率も16%に下落 - 産経ニュース

確定申告のために税務署を訪れた人たちが「裏金政治家からきちんと税金を徴収しろ」「政治家から徴収するまで納税しない」と文句を言っているというニュースを見た。スタッフジャンパーを着ているアルバイトの若者へ、イオンで購入したジャンパーをパリっと着こなしたオジサンが文句を言う、いわば世代間ジャンパー対決だ。現在の政治に対する怒りはごもっともである。だが、政治家の納税と自身の納税は別問題である。残念ながらhttps://www.e-tax.nta.go.jp/で申告できるのに紙に慣れているという理屈でわざわざ税務署に足を運んでいるのは頭脳が硬直化している老人およびその予備軍であるためそのことが理解できない。確定申告は面倒だ。細かい。イライラは募る。そのうえで自民党の議員がアホなことをやっている。ムカつく。文句のひとつでも言いたくなる。その気持ちはわかる。無視できない声だ。あるニュースによれば「税務署へ持参して提出(紙)」で確定申告をする人が24.9%いるらしいからだ。無視できない。なお、関係ないが、岸田フミオ内閣の最新の支持率は14%である。

はっきりいってしまおう。自民党裏金問題に憤って「政治家から税金を徴収してからにしろ」「納税ボイコット」と訴えるのは理性に欠けている。あえていおう馬鹿であると。馬鹿な政治家のために納税を怠って追徴課税を受けるのは実にくだらない。馬鹿な不正をする政治家と同じレベルになっていいのですか?。よく考えてほしい。つか、よく考えなくても、我々の納税/確定申告と自民党裏金問題はまったく別の問題である。感情的になってそれを混同してはいけない。怒りはわかる。ムカつくのもごもっとも。自民党裏金問題で大炎上しているところに放り込まれた「超訳)自民党議員の裏金問題は、忘れやすい日本人の特性をフル活用して、内々激甘対応できちんとやってきますので、下々の日本国民の皆さまのおかれましては法令に基づいて確定申告&納税をきちんとしてくださいね。裏金は選挙で選ばれた国会議員の特権です。やらないと追徴課税ですよ」という岸田フミオ首相のコメントはニトログリセリン級だ。支持率14%を誇る岸田フミオ首相は、フミオ界の風上に置けない男である。

岸田フミオさんが首相になったときのことを覚えているだろうか。記者会見だ。A6サイズの小さいノートを高く掲げ「聞く力」をアッピールしていた。ノートは書くものであるため、聴く力=聴力と何の関係性があるのか、そのときの僕には理解できなかったが、世の中、ネットの反応は概ね好評だったように見えた。今は、ノートをメガホンのような形状に丸めて音を聞く道具として活用するという意味だったと好意的に解釈している。つい先日も子育て支援だがなんだかのための月500円増税を「収入アップが見込まれるので増税にはあたらない」と答弁していた。500円はたいしたことがないという認識なのでしょうが、日々の昼飯代を1日300円台におさえている僕からみれば500円はファミチキが追加できるくらいの大金なのだ。ふざけてんのか。閑話休題。何が言いたいかと申し上げますと、岸田フミオさんは微妙に認識のズレた発言を繰り返す人なのである。だから、国民への納税訴えも、当たり前のことを申し上げているというだけなのである。そういう人に「裏金問題を解決しろ!」「納税ボイコット!」と訴えても、さらにイラっとする発言が生産されるだけだろうと予想する。

というわけで裏金問題に憤って「納税ボイコット」「政治家からきちんと徴収しろ」と確定申告タイミングで訴えても馬鹿をみるだけなのだ。それが、あえていおう馬鹿であると、の意味である。このような理屈を説くと、「そういう冷笑主義が日本をダメにした」とか「政治から逃げている」というようなことを言われる。違うのだ。攻撃の仕方が間違っているのだ。先述のとおり、裏金問題を解決しろ!政治家が納税するまで納税しないぞ!と訴えるのは期待値の14%くらいのダメージしか相手に与えられないと思われる。もっと壊滅的なダメージを与えて危機感を持たせるのだ。というわけでハクティビストのアノニマスさん!出番です。疑惑議員のPCのハック、オナシャス!霞が関と間違って霞ヶ浦を誤爆した恥ずかしい歴史を覚えているので今度はきちんとお願いしますよ。では僕はhttps://www.e-tax.nta.go.jp/に戻ります。これまで入力したものがパーになるのは嫌なのでhttps://www.e-tax.nta.go.jp/を攻撃するのはやめてね。

(所要時間25分)

単行本『ドラミちゃん』「しずちゃんの入浴オチ」はないけど最高でした。

単行本『ドラミちゃん』、最高だった。最初にいっておくと僕はドラえもんの熱心ファンではない。小学生の頃、コロコロコミックの連載を読み、大長編ドラえもんの特別連載を毎年心待ちにして、今も実家の本棚にはてんとう虫コミックが揃っている、その程度のファンだ。グッズを追い求めるとか聖地巡礼をするようなマニアではない。そんな僕でも単行本『ドラミちゃん』は最高の読書体験だった。ドラミちゃんワールドが1冊にまとまっているのがとても良かった。しかも240ページの大ボリューム。最高。

ドラミちゃんはF先生の変化球だ。ドラミちゃんというドラえもんとは性格の違うキャラクターを本来ドラえもんのいるポジションに配置して、物語に変化を与えている。アニメ版でよくある優等生なドラミちゃんがのび太の面倒をそつなくこなしてドラえもんが嫉妬するエピソードがその代表だ。マンネリ回避というよりは、たまに投げる変化球を楽しんでいたように見える。初期ドラミちゃんの、キャラが安定していないところも地味に見どころだ。

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(「ドラえもんの妹」設定に必要以上に説得力を持たせるビジュアル)

 

ドラミちゃんの話には2つのパターンがある。ドラえもんの物語の中にドラミちゃんが登場するパターンと、端からドラミちゃんが主役のパターンだ。ドラミ主役話を読んでいると、ドラえもんの原作を読んだことのない非国民の方が読んでも何ともいえない違和感を覚えるはずだ。低い感性の方でも読み進めているうちに、「これはドラえもんの世界じゃない!」と気づくだろう。少々ドラえもんに詳しいセンスある人のあいだでは常識なのだけれどドラミ主役話は、いわば、ドラえもんワールドのパラレルワールドなのである。

ドラミ主役話のいくつかは異なる連載誌に掲載されていたもので(特に『小学生ブック』に連載されていた回は後述のズル木が登場するぶんパラレルワールド感が強い)、修正をほどこしてドラえもん単行本に収録している。大人の事情により完全な修正がおこなわれなかったため、それが違和感に繋がっている(そのあたりの事情はこのサイトが詳しい→君はズル木を知っているか。ドラえもんマニアには常識、のび太郎とカバ田とみよちゃん:ムゲンホンダナ(本棚持ち歩き隊!!):SSブログ

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(ジェネリック・スネ夫、小さいジャイアン、違和感しかない一コマ。パラレル!)


のび太っぽい主人公は「のび太郎」、ジャイアン=「カバ田」、しずかちゃん=「みよちゃん」、スネ夫=「ズル木」である。のび太郎は見た目がのび太なので無修正、カバ田とみよちゃんは修正でドラえもん世界との整合性をはかっている。しずかちゃんに修正されたしずかちゃんそっくりなみよちゃんに、「みよちゃん」と呼ぶのび太っぽいのび太郎。うん。意味がわからない。でもそれが面白い。

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(この数コマだけでも哀しい…。そして突然登場の「みよちゃん」の名前。ここではズル木ではなくスネ夫だ。パラレル!)

 

それにしてもF先生はときどきいい加減なネーミングをするものだ。「のび太郎」って。天才の仕事だ。なお、ズル木については修正をあきらめて、スネ夫への修正がなされずにしれっとズル木で出ている。本書に収録された話でも、ズル木でいくかと思いきや、別の話ではスネ夫が出ていたりする。そしてズル木とスネ夫の共演はない。なおスネ夫はよく知っているキャラで憎めない面もあるのを僕らは知っているけれど、ズル木は登場回数が少なく良い面が描かれていないので単にズルい奴なのがいい。ズル木はズルくて嫌なやつ。そのままでわかりやすい。ジェネリック・スネ夫ことズル木の扱いがひどくて最高。

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(ただのズルい男、ズル木。ドラえもん正史から消された哀しいキャラだ)

 

このようにドラえもんの世界観とドラミちゃんの世界観とのあいだでときどき見られる整合性の取れてなさを一冊で楽しめるのが単行本『ドラミちゃん』の魅力だ。ドラえもん単行本に点在して収録されたために薄まっていた整合性の取れてなさが、ドラミちゃんでくくられているぶん特濃で味わえる。整合性を気にしない、ロックなスタンス。今なら生成AIで修正できてしまいそうだが、あえてその雑さを残しているのがいい。

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(パパかと思ったら、お前誰やねん。パラレル!)

 

あと、ドラミちゃんが女の子だからだろうね、しずかちゃんのお風呂オチが見られないのでその点について過剰に反応しそうなネットのとある層にもおすすめできる。なお、長期にわたって描かれた『ドラえもん』だがドラミちゃんの登場回は23回しかない(らしい)。思ったよりも少なく感じるのはドラミちゃんというキャラクターのインパクトが大きいからだろうね。その中でも「海底ハイキング」「ネッシーがくる」「ガンファイターのび太」は名エピソードなのでぜひ読んでほしい。なお、紙書籍にはドラミちゃんシールが付いてくるよ。(所要時間30分)

帰宅命令を出すのは「公共交通機関が止まったら」でいい。

先日(2024年2月5日)、関東地方に大雪が降った。職場がある神奈川県に大雪警報が出された。めずらしいことだ。積雪を警戒して朝から県内の有料道路は通行止めになっていたが、会社最寄り駅を経由する電車やバスといった公共交通機関は通常どおり運行。朝からSNS上では帰宅命令を出す企業の情報がぽちぽちと出始めていた。

午前10時半。僕の座る窓際席から降雪を確認。会社前の道路はうっすらと白くなりはじめていた。スタッドレス未装着車の走行は危険だ。会社上層部が会議室に集まり、対策会議を開き対応を検討しはじめた。降雪予報を受けて前日の夕方にも会議はひらかれていたが、「明日の様子を見て臨機応変に対応する」というどうしようもない結論に至っていた。こういう状況ならこういう動きをするという取り決めもなし。1時間弱の会議で何を話していたのだろうか?行き当たりばったりを臨機応変と超訳していてアカデミー出版もびっくりである。

12時。降雪は強くなるばかりで、数センチの積雪が認められた。もはや我々社員の興味は、帰宅命令を出す/出さないから帰宅命令を出すのは当然でいつ出すの?今でしょ問題になっていた。同時刻、上層部が3回目の対策会議を開催。会議は3分で終了。会議の長さがおっさんの不整脈のように不安定だ。結論は「高い関心をもって降雪の状況を注視していく」というものであった。平均60才オーバーの上層部が、横一列に並んで、高い関心をもってぼーっと窓の外を見ている光景は、薄気味悪く、「60才をこえたら自分もこうなってしまうのか」という将来への不安を覚えてしまう。

13時。降雪はさらに強くなるばかりであった。上層部が対策会議を開催。手帳を持たず手ぶらで談笑しながら会議室に入っていく老人たちの姿が不安と不快感を覚えた。「ゆーきやこんこ」という歌声が聞こえた気がした。まさかの幼児退行現象。幻聴であってほしい。

(19時頃の様子。雪はパラパラ降っていた)

13時40分。途中から会議への参加を要請された。これまでも指示を周知するため、在社中の部門長クラスが招かれることはあった。会議室では「公共交通機関が止まったら全社員に帰宅命令を出そう。会社に泊まったら光熱費がかかるし、せっかく備蓄していた非常食も消費してしまう。もったいない」と上層部が真顔で話し合っていた。聞き間違いを信じて確認したが、《公共交通機関が止まる前に》ではなく《止まった後に》であった。大雪のなか、会社を追い出されて、身動きもとれない。温かい本社と緊急時のために備蓄した食料があるのに、なぜ神奈川の市街地で雪中行軍をさせられなければならないのか。嫌がらせすぎるだろ。会社は我々を見放したーーー!

ブラック企業ぶりに目の前が真っ暗になりつつも反論した。「今、帰宅命令を出してはどうですか」。すると上層部は「今、帰宅命令を出せば、会社都合による休業となり、手当を払わなければならなくなる。しかし、電車が止まれば天災による休業となり、手当を払わなくてすむ。それが経営というものだよキミ」と答えた。安全配慮義務はいずこへ。

このような判断の裏には、過去の判断のしくじりがあった。数年前、巨大台風が関東に激突すると大騒ぎになったのを覚えていないだろうか。そのとき、我が上層部は我が身の安全を第一に考えた。そして「台風の中、出社したくない」という本音が露見するのを隠すため、木を隠すなら森の中とばかりに、激突予想日を終日休業として社員全員を自宅待機させたのである。巨大台風はそよ風レベルで終わった。その結果、会社都合休業とされ賃金を支払うことになり、当時の上層部内で責任の押し付け合いが起こったのである。以来、我が社上層部は災害への判断は《ギリギリでいつも生きていたいから》路線へと変わった。

結局、社員からの圧を気にした上層部は、18時定刻に合わせて帰宅命令を出した。無意味であった。なお雪は夜更けすぎに雨へと変わり、公共交通機関が止まることはなかった。こうして大雪における帰宅命令戦争は会社上層部の大勝利に終わったのである。翌日、上層部たちは「この地域で長年生きてきた経験からこの程度の雪では電車が止まることは絶対にないと読み切っていた」と自慢していた。上層部の判断に疑問を呈した僕は「帰宅命令を出す必要あったかね?」「キミの判断は甘すぎる」と事あるごとに嫌味を言われている。きっつー。(所要時間32分)

原作を映像化された経験のある僕が「セクシー田中さん」改変について思うこと。

漫画『セクシー田中さん』の連続ドラマ化における原作改変が、原作者の急逝という最悪な結末になり大きな問題になっている。SNSやネット記事のコメントを観察していると「原作者の意向や原作の内容を改悪するな」という声が多いようだ。テレビ局と出版社と脚本家がそれぞれコメントを発表したけれども、その内容がもやもやするもので、騒動の沈静化にはまだ時間がかかりそうだ。

一方、多くの人はどのようにテレビ局が原作付きのドラマをつくっているのか知らないようでもある。なぜなら作品をドラマ・アニメ・映画にされた経験がないからだ。僕は自分の書いたものが日テレでドラマ化された経験がある。

delete-all.hatenablog.comこのブログの「トイレにとじこめられています」という記事が2019年にミニドラマになったのだ。

中居&鶴瓶、“深夜版”仰天ニュース生放送 田中みな実は厳選セクシー写真公開 | ORICON NEWS

当時の記事→

VTRでは、神奈川県の40代男性に起こったちょっと大人な仰天事件が登場。妻が出かけた1人きりの時間に、お気に入りのDVDを全裸で鑑賞し、至福の時間を過ごしていた男性。だが、トイレに入ったところ、なんとドアノブが壊れて全裸でトイレの中に閉じ込められてしまう。妻にスマホで助けを求めようと考えたが、全裸のうえにリビングではとても妻には見せられないDVDが流れっぱなし。なんとか妻の帰宅前に脱出を試みるが…男性の運命はいかに…。


はっきりいって恥である。だがこのドラマが出来上がるまでにどのような工程があったのか明らかにすることで、ドラマの制作サイドが原作をどう考えているか、原作とドラマとの差異はなぜできるのか、「セクシー田中さん」問題を考えるヒントになると思う。

2019年秋、当時、著作を出させていただいた出版社(KADOKAWA)の担当編集者さんを通じてドラマ化の話を持ちかけられた。担当編集者さんは打合せを通じて信頼できる人物であったこと、断る理由もなかったこと、などから軽い気持ちで承諾した。とんとん拍子に話が進み、恥の歴史のゴミ集積場であるこのブログの記事のなかから「トイレにとじこめられています」が選ばれた。

最初に契約書に署名捺印をして、それから都内に出向いて出版社と制作会社の人とで打合せを1~2回行ったと記憶している。当然のことながら、映像化された経験がない素人だったので勝手がわからず流れに身をまかせた感じだった。契約書(覚書)には基本的な取り決めが定められたもので、たとえば原作のこのポイントは絶対にいじらない、みたいな文言はなく、映像化された場合の著作権の帰属等が詳しく定められていた。僕が生きている世界の契約書とは少し違う印象を持った。

で、打合せ。あんな内容のクソ・ブログでプライドもなかったけれども、ドラマで聖人と描かれたら街を歩けなくなるので「僕からは一個だけ、なるべく元記事を忠実に再現してください」と要望を出した。制作スタッフの人たちは業界っぽい感じのスタッフジャンパーを着ていて、メディア的な圧力をかけてきていたけれども、「それはもちろんです」と快諾してくれた。ブログ記事の詳細、舞台となる自宅マンションのつくりや距離感をヒアリングされた。ドアのつくりやリビングの雰囲気、床や壁の材質も確認された。自宅マンション内という限られた舞台でリアリティを付与するのに映像のプロはここまで細かくヒアリングをするのだと感心した。登場人物である奥様と義父のルックスや雰囲気もヒアリングされた。大きな問題にならないようそれぞれ「アン・ハサウェイ」「三船敏郎」と答えた。これがどうキャスティングに反映されたのかは各位確認して判断してほしい。

打合せの最後に制作スタッフの人から「先生、忠実に再現するつもりですが、一か所だけ一か所だけ」と注文が入った。これが、汗と涙と体液を注ぎ込み、唾を吐き捨てた原作を改変する悪名高きアレか…と軽く絶望したが、僕とテレビ局のコンプライアンスを守るための申し出であった。というのも記事中に登場する最重要要素「成人向けDVD」の内容が引っかかるからであった。原作ブログ(実際)で視聴していた作品は、黒と白の2匹のワンちゃんとギャルが合体グランドクロスする内容であったのだ。うん。無理。そんなものを公共の電波で流されたら社会的に死ぬ。うん。無理。ありがとう。というわけでドラマでは内容はあいまいにすることで合意した。その後、番組内で使うインタビューを撮影して(なんと一発でオッケーだった)、打合せは終わったのである。

その後、映像化に際してどうアレンジされたのか、事前に脚本が届くことも完成品を観ることもなく放送当日を迎えたのである。これには少々驚いた。一般の視聴者と同じ目線で番組の放送時間を待っていたのだから…。
放送されたドラマは、おおむね打合せどおり、原作ブログどおりに仕上がっていた。ただ原作ブログ上のひとつのクライマックスである「奥様と僕の会話」、「泥酔した義父との奥様を介したやりとり」は全カットされていた。

僕「ゆ、ゆっくりとね…」
妻「うまく、入らない…すごく、狭いよ…」
僕「落ちついて。ゆっくりゆっくり。痛いっ」ドアノブに頭をぶつけた。
妻「ごめん、あれ?おかしいな。柔らかくてうまく入らないよう」
無駄にエロい会話。しかも男女逆転。嘘みたいだろ。僕たちレスなんだぜ…


義理の父が作業を開始した。「ひまほらはけるぞ」お義父さん酔っていてしどろもどろ。なので妻が翻訳「たぶん、今から開けるぞだと思います」。すみません、僕が言うと義理の父が「ひにょうきか。びみはななしのしのごら」といい妻が「たぶん、気にするな。君は私の息子だから、たとえ裸でも見捨てたりはしない。イキロ。と言っているんだと思う」と翻訳するが明らかに原文より長い超訳。

当該箇所はおそらく映像化にむいていなかったのだろう。ドラマの出来には納得しているけれども、こうやって原作のエッセンスがカットされる事態はありうることだと学んだ。「セクシー田中さん」くらいの大きな作品で連続ドラマになると制作サイドの都合でこういうことが積み重なっていったのではないかと想像する。僕が改変に納得したのは原作ブログにあったコア(核)が守られていたからである。

ブログのドラマ化はおおむね成功だった。僕役の俳優さんが同レベルのイケメンで、楽しいドラマに仕上がっていた。成功したのは、出版社の担当編集者さんと制作スタッフが僕のブログを正しく評価して、ほぼ忠実に再現することに注力してくれたからだ。ラッキーだった。それでも前述のとおりブログのとおりというわけにはいかなかったのだ(納得はしている)。

ドラマ/映像化がはじまると原作者は原作を預ける形になり介入できなくなる。制作サイドが原作者の意向を無視して作品を原作者から奪おうとすれば容易にできてしまうだろう。「セクシー田中さん」の連続ドラマ化のように、プロジェクトが大きくなればなるほど、関わる人が増え、原作愛のない人の介入を許すことになる。そしてドラマ制作サイドは人数で原作者を圧倒するため、人間特有の群れると謎の強気になる習性から「ドラマ制作では俺たちの方が偉い」と勘違いをして、原作者を蔑ろにするような、絶対にいじってはいけない原作のコアの部分をいじる蛮行が行われてしまうのだ。漫画と映像はちがうものなので改変やアレンジは仕方がないと思う。だが、改変やアレンジを行う際に、その改変が作品のコアに触れるものなのかどうか、判断できない者に映像化する権利はないと僕は思う。(所要時間50分)

僕の「昭和」が死んだ。

最近「昭和」がバカにされすぎ。「昭和(笑)」とオチに使われるのをよく見かけるし、部下に注意したら「部長みたいな昭和の働き方はできません」と笑われた。「昭和はこんなものじゃないぞー」とやりすごしたが、僕は昭和を知らない。大卒で就職したのが1996年(平成8年)で、昭和は僕が中学3年生のときに終わっていた。つまり僕は昭和の働き方を知ってるマンの資格を満たしていないのだ。

「昭和」はいつからこんな扱いをされる存在になったのだろう。昭和は「あの頃は良かったね」といわれる憧憬の対象だったはず。昭和への郷愁を感じさせる映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は大ヒットした(観たことないけど)。たしか「週刊/昭和時代」も刊行されて、初回は特別価格で、付録はタンツボ(白/陶器)だったと記憶している。

僕は、たぶん、昭和の働き方にどっぷり浸かっていた世代と、直接、十分な時間を一緒に働いた経験をもつ最後の世代だ。新人時代の上司や先輩たちは1970年代~80年代中盤までを現役バリバリで生き抜いた人たちで、彼らからアポ無し突撃、飛び込み名刺配り、接待攻勢、深夜残業、1日2箱の付き合い煙草、飲みにケーション等々、昭和の営業手法を徹底的に仕込まれた。再現性もなく、効率性も考慮しない方法論だったが、新人なので従った。政略結婚の相手から変態的なプレイを求められても断れないのと同じだ。

その頃、すでに昭和の働き方は限界で、減少する仕事と多様化するニーズ、外資の進出に有効な手を打てなかった。昭和のいいときは受注が絶えない時代で、仕事のクオリティが伴わなくても結果が出ていた。結果オッケーとされて、仕事内容と受注の因果関係の検証はなされなかった。上司や先輩たちは決してバカではなかった。自分らの働き方に疑問を感じていたはずだ。でも変えられなかった。人間は過去の成功体験から逃げられないのだ。

僕に昭和の働き方を徹底的に教え込んだ主犯はK次長だった。僕は昭和の働き方の継承者だったが、昭和の方法論が使い物にならなくなるのもわかっていた。飛び込み営業をやめたり、ネットに広告を出したり、顧客数を絞ったり、新しい試みを試していった。K次長は「そんな生易しいやり方じゃダメだ」「営業は足で稼げ。汗を流せ」と注文をいれてきたが途中から何も言わなくなった。新しいやり方を異物のまま受け入れてくれたのだろう。

お客様は神様。年功序列で流動性の欠けた組織がひとつとなって無理、無茶、強引に脇目もふらず顧みず突き進んでいく。そんな昭和の働き方が世の中の変化に対応できるわけがない。それが僕が実際に経験した1990年代後半。僕が退職するとき上司や先輩から「ここでの経験を活かして」「何か困ったら連絡しろ」「全力でぶつかれば道はひらける」と言われたけれどもクソほども役に立たない助言だと思った。K次長からは「ここであったことは全部忘れろ」のひと言だけだった。ここで培ったものは役に立たない。ゼロからだと覚悟してやれ。そういう意味だ。

別業界(食品業界)へ転職した。2002年だ。会社自体が若く、新しいことを取り入れていく社風があった(当初は)。営業部門は新しいターゲットを見つけては個々が臨機応変に対応した。人員不足で営業からクロージングまで一人で完結しなければならなかった。法令遵守が徹底していて(当初は)、原則残業は禁止。サービス休日出勤など論外。PCを駆使して一人で完結する仕事のやり方なので飲み二ケーションも無意味。

新しい職場で僕は結果を出すことができた。だが、同僚より能力や努力が秀でていたとは思えない(運には恵まれた)。思い当たる理由はひとつだ。スマートに働こうとする同僚よりも、僕の働き方は少し泥臭かった。新規開発がうまくいかなくても執拗に相手に食い下がった。談笑する同僚たちに加わらずに仕事に没頭した。おそらく同僚たちが抱えていた案件の2〜3倍の数の案件を抱えて同時進行させていた。それは2002年に合わせて薄味にモデルチェンジされた昭和の働き方そのものだった。

昭和の働き方が沁みついていたことが功を奏した。だから「昭和の働き方~」「昭和ヤバ~」と世の中が昭和を嘲笑っているのを見ると、複雑な気分になる。昭和は確かにダメだった。昭和は忌まわしき過去、嘲笑の的だ。それでもいい。でも忘れないでほしい。ダメな昭和があったから今があるということを。歴史は繰り返すものだから、令和を生きる若者たちもいつか「令和www」と笑われる日がくる。特大ブーメランにならないことを祈るばかりだ。たまには空気@存在感の「平成」を心配してみてはどうだろう。

昨秋、K次長が亡くなった。他人に厳しく、言い方はキツく、苦手な人物だった。今は感謝している。昭和の働き方を叩き込み、9割のダメと1割のマシを心身に刷り込んでくれた。昭和の滅茶苦茶な働き方はストレスも半端なかったと推察する。K次長はまだ70歳だった。先輩達の中にも60代で倒れた人が複数いる。好景気という祭りの代償は高くついた。20年前の僕は生来の天邪鬼が爆裂していて、彼らへ素直に「ありがとうございました」と言えなかった。だから今しばらくは「昭和はこんなもんじゃねーぞー」と言い続けたい。きっとそれは彼らと、彼らが生きた昭和への供養の言葉になるだろう。(所要時間44分)