宮沢賢治は「真の幸福に至れるのであれば、それまでの悲しみは、エピソードに過ぎない」と言った。だが、今を生きる僕らのほとんどは幸せに至る前のエピソードで死んでしまうのでないだろうか。「何ものにもなれなかった」が口癖の元同僚がいる。出会ったときは先輩だったが、別れるときは部下だった人。50代、バツイチ。彼の口から「何ものにもなれなかった」という台詞が出ると「何かを目指したことありますか?」「そもそも何ものって?」「挑戦してないのに後悔するポーズやめてください」と僕が詰問し、彼が「いじめるなよー」とヘラヘラするのがこれまでの飲みのパターンであった。
世間的に飲めるようになったので彼と飲んだ。駅前。チェーン居酒屋。再会に乾杯した直後「就職した会社がブラックでさ」と切り出す彼。就職していたらしい。またうだつのあがらない話を聞かされると憂鬱な気分になる。話を促すと彼は「手取り28万」「営業事務」「正社員」「残業なし」「賞与年3ヶ月」「社会保険完備」と文句を言うように捲し立てた。50半ばで取り立てて才能のない中途採用。同僚は良い人ばかりで楽しく仕事ができているという。どこがブラックなのか。さっぱりわからない。中ジョッキ追加。就職に乾杯。
その理由をたずねると「上司が20才もトシが下だから」という回答であった。その上司は仕事が出来て気が使える人らしく、それがかえってムカつくらしい。「バカっすねー」と笑いつつ、どうにもならないことをブラックの一言で片付けられるなら、それはそれでいいじゃないか、と思った。彼からは自信も尊厳も失われているのだ。かの有名なマイケル・サンデル先生が『実力も運のうち 能力主義は正義か?』で、能力で序列が決定する能力主義は低いところにある者から尊厳を奪い去るから残酷なのだ(要約)と言っていた。「あなたの能力はこうです」「見合った待遇はこれです」という言い訳のできない世界。容赦のない社会。彼はつらい現実から目をそらすためにブラックを利用した。それを僕は否定できない。「人間にはふさわしい場所がありますからね」と僕は言った。「あなたはその程度の人でしょ」という嫌味のつもりだった。ところが彼は「あなたにはもっとふさわしい場所がある」的なポジティブな意味に受け取ったらしく、「そうなんだよー」とビールをガブガブ飲んだ。中ジョッキ追加。ポジティブに乾杯。そろそろ「何ものにもなれなかった」の出番か。
「俺はさー」彼が口を開いた。キター。しかし、彼が続けた言葉は僕の予想とは少々異なるものだった。「何ものにもなれなかったよ。でもこれでいいんだ」そこには吹っ切れた中年男の顔があった。僕は用意していた言葉を永遠に失ってしまう。「何ものにもなれない」という愚痴の先に未来がないことにようやく気づいたのか。そこで「すでに手遅れです」と言うほど僕は鬼ではない。中ジョッキ追加。諦念に乾杯。「俺さ、自由思念になったよ」「今、なんと」霊言的なものか。「自由思念。何ものになろうと考えるのはやめた」そこには他者の目を気にせず自分の誇り高い人生を回復したひとりの中年がいた。僕らは僕らは自身の人生を生きればいいのだ。中ジョッキ追加。自由思念に乾杯。「先輩やっとわかってくれたのですね」言ってから驚いた。20年ぶりに彼を先輩と呼んでいたことに。
「何ものは目指すものではなく、向こうからやってくるものなんだよ」「え?」「だから何もせず何かが向こうからやってくるのを待つことにした」そういうと彼は、ジョブズ、マスク、ゲイツ…現代の世界的成功者の名を挙げ「みんなやってくるものをゲットしただけだ!俺は俺の責務を全うする!」と言ってジョッキを掲げた。付け焼き刃の煉獄さんが哀しかった。たまらず中ジョッキ追加。人生で完敗。彼は他力本願マンになった。能力主義の果てに。死ぬまで何ものにも縛られない自由思念体となって成功がやってくるのを待つのだ。何もない人が何もしないでた待っているだけ。デクノボーすぎる。中ジョッキ追加。宮沢賢治に乾杯。ぼくはこのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう…どうしてこんなにかなしいのだろう…
結局、何も言えなかった。木偶の坊に手向ける餞はない。最後に僕をドン底に突き落とした彼の言葉を締めの言葉としたい。「俺とお前には子供がいない。後世に遺伝子を残せない俺たちは生物的には敗者なんだよ。ルーザーなんだよ」絶望が深すぎて死んだ。中ジョッキ追加。絶望に乾杯。(所要時間29分)
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