Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

猫がいなくなった。

猫がいなくなった。ノラ猫だ。近所の道路や駐車場を歩いていたり、近隣の家の庭や僕の車の下で昼寝をする姿を見かけたオスのキジトラで、尻尾が短くて丸くてお団子みたいだったので、勝手に「ダンゴ」と名付けて呼んでいた。初めて見かけたのは2015年の春先だ。隣家の自家用車の屋根の上にいて、出勤中の僕と目が合ったのだ。口もとが真っ白なのが印象的な、子猫だった。それからは毎日のように姿を見かけるようになった。何日か見かけないときは妻さんと「今日はお出かけかね」「猫は自由でいいよね」なんて話をしたものだ。台風の日や雪の日は「あの子大丈夫かな」と心配した。ダンゴは鈴や首輪もしていなかったけれど、毛並みも綺麗で少し太り気味だったのでどこかのウチでゴハンをもらっていたのだと思う。さいわい、といってしまっていいのかわからないけれど、我が家の周りも高齢化の直撃を受けていて、毎日サンデー状態のおじさんたちが日中ぶらぶらしているので、もしかしたら世話をしてくれていたのかもしれない。ダンゴはカワイイ猫だった。声をかけてもニャアと大きな声で鳴かない。ニャ、と呟くように声を出すだけだ。基本的にのんびりしていて全力で走らない。日なたぼっこをして寝ているときは、だいたい白目。

ダンゴの姿を見かけなくなった。当初、妻さんと「最近見ないね」と話していた。数日見かけないことはときどきあったので「いつもの小旅行かな」つって二人とも気楽に考えていた。1週間、1か月と経って「どうしてるかな」「大丈夫かな」と不安は増していった。外国の動物園の動物がコロナに感染したというニュースをテレビで見たときは「もしかして感染した?」と余計な心配を募らせ、「野良猫の寿命」をインターネットで調べて、「野良猫はハードな環境で暮らしているので寿命は5年から7年」という情報を見つけて、勝手に絶望した。小学生のとき友達のセト君の家で飼っていた猫のポチのことを思い出していた。つい最近までポチは僕が触れることのできた唯一の猫だった。セト君の家に遊びに行くと、ポチはいつも寝ていた。ゲームをして遊んでいた僕らが大きな声を出しても、ポチは関心なさそうな顔をしていた。ポチの最期は誰も知らない。ある日、いつものように散歩に出かけてそれっきりだった。セト君は祖母から「猫は最期のときは人間の目の届かないところにある動物しかいない国に行く」と教わって、信じていた。僕も信じた。人間のいない動物だけの国なんて平和でいい、ポチはそこでのんびりと暮らしているのだ、と。ダンゴもその動物だけの国に行ったのだろうと考えることにした。妻さんにもポチの最期の話をした。「動物だけの国が本当にあったら素敵ね。ダンゴも無事に辿り着いてほしいな」と彼女は言った。

それでもダンゴのいない寂しさは消えなかった。勝手だ。何度もウチに迎えるチャンスはあったのだ。それでも「今のマンションではペットは飼えない」「野良猫の自由を侵害する権利は僕にはない」と自分に言い聞かせた。それでダンゴがいなくなったあとで、「寂しい」「やりきれない」と言っているのだからどうしようもない。何もしなかったのだから何も起きなかったのだ。僕が感じていた寂しさとは、いつも見かけた猫がいなくなった寂しさではなく、いつも見ていた風景の一部がなくってしまった寂しさだったのかもしれない。人間と猫では生きる時間のスピードが違う。ちゅーるちゅーるチャオちゅーるでも、猫を人間の生きる速度に留めることはできない。こんなふうに理屈になっていない理屈で納得して、後悔しながら、諦めながら、生きていく。

ダンゴを最後に見たのは2年前、2020年の初夏だったと思う。「思う」と曖昧なのはダンゴのいる風景が突然なくなってしまうとは想像できず、それが最後になると意識していなかったからだ。近所を歩いていて似た猫を見かけては「ダンゴが帰ってきた」とガッツポーズを決め、次の瞬間、落胆した。勝手に期待と落胆の対象にされた猫には申し訳ない。酔っぱらって変える途中の夜道に落ちていたマフラーをダンゴと勘違いして「おおお!」と涙を流しながら拾おうともした。アホすぎる。いつしか、そんなこともしなくなった。ダンゴはポチのいる動物の国の住民になったのだと完璧に諦めたのだ。

2022年の夏が来た。ダンゴがいなくなったあと、ウチの周りでは猫たちが暮らしている。彼らもいつかはいなくなる。そのときまた自分勝手に寂しさを感じるのだろう。諦めることが人生なのだと割り切って。諦めて。とにかく夏だ。日が長くなって会社からの帰り道、午後七時近くになってもまだまだ明るい。うだつの上がらない人生なので、普段は視線を落として歩いているけれど、そのときはたまたまだった。はじめてダンゴを見かけた隣の家を見た。あの日ダンゴが乗っかっていたクルマが今もあった。その家の塀は低くて、軒先は丸見えだ。雨戸を閉めようとしているその家に住むおじいさんがいた。夕焼けを眺めていた。その顔の下に猫の頭があるのに僕は気付いた。口の周りが白いキジトラだった。ダンゴだった。間違いない。おじいさんに抱きかかえられたダンゴは一緒に夕焼けを眺めているように見えた。ノラネコのダンゴはイエネコになった。タイミングさえ合えば、抱きかかえられて外を眺めているダンゴにはいつでも会えるのだ。本当に勝手だけれど僕の知らないところで勝手に生きていてくれたことがただ嬉しいしそれ以外に言葉がない。(所要時間45分)