Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「胸を揉んでほしい」と妻に言われました。

妻から「胸を揉んでほしい」と言われた。私の記憶が正しければ11年ぶりである。当時の記憶は曖昧である。この夏の甲子園出場校にたとえるならば、鳥取商が11年ぶりの出場である。関係者と甲子園マニアをのぞけば、11年前の鳥取商の戦いを鮮明に記憶している人はいないだろう。「胸を揉む」というと、性的なコンテンツと思われがちだが、実態は「モミモミ~モミモミ~」という軽薄な行為ではなく、1冊の辞書をつくりあげる人々を描いた名作「舟を編む」のように、静謐な響きが聞こえてくるような崇高な行為である。舟を編む。胸を揉む。なぜなら、妻から要請されたのは乳がん予防のための触診だからだ。「自分ひとりでは分からず見落としかねないのでセカンドオピニオン的に揉んでみてほしい」妻はそう言った。この部分に着目すると、妻からの信頼を勝ち得ている平均的な夫という社会的評価を得られるだろう。それは違う。妻は「ビーチクに触れてはならない」とも告げたのだ。昨今の過激化したグラドルやコスプレイヤーはニップレスを貼りビーチクを隠せばだいたいオッケーという風潮である。言い換えればビーチク以外はおまけであるということ。つまりビーチクに触れてこそ信頼を勝ち得ている夫なのである。私は妻から「ビーチクに触れたら」と核の脅しを受けている。信頼を勝ち得ているとは到底思えない。ビーチクに触れた瞬間、股間のプーティンが膨らんだ瞬間、私は相模湾に浮かぶ土左衛門になるのだ。つまり、私に出来ることは大和市のホームページ(乳がんの早期発見・早期治療のため、自己触診をしましょう/図書館城下町 大和市)で触診のやり方を学び、完璧に遂行するほかない。大和市からの教えに従って己の胸を揉んでいる最中、きちんと胸を揉むことができるのだろうか、という疑念が浮かんできた。それはやがて怪物となり夜な夜な私を悩ませ、妻から「胸揉むってレベルじゃねぇぞ!」と恫喝される近未来しか見えなくなってしまった。そもそも一介の中間管理職にすぎない私に何が出来るというのか。長年の経験でしこしこすることに長けているとはいえ、それが胸のしこりを見つけることに役立つかといえば自信はない。若かりし頃、私は常に女性の胸を追い求めていた。かとうれいこ、細川ふみえ…数多くの水着クイーンたちが微笑みを浮かべ魅惑のステップで私の前を通り過ぎて行った。多くの戦友たちがいた。だが彼らはもういない。そして「高速道路を走る車から手を出して受けた風の圧が女性の胸だ」と教えてくれた旧友も、「父さんと高速道路を走ってみたい」という私の純粋な願いに何も言わずに車を出してくれた父も、すでに故人である。過ぎ去った過去やもういない人たちを思い出しても胸揉みは上達しない。30年経った今、EDを患った中年の私になすべきことは、人間をヤメ、一台の胸揉みマシーンに徹することである。亡き友の言葉を思い出した私は真夜中の高速道路で車を走らせ、掌で風の圧を感じた。ショッピングモールに置いてあるヨギボーを揉んだ。覆面パトから叱られ、店員から嘆かれ、志半ばで鍛錬は終わった。いずれにせよ無駄な鍛錬であった。揉む胸に不自由しない大富豪であっても、空気を揉んでいる者であっても、流れる時間の速さは平等だ。無慈悲に迫る、ジャッジメント・デイ。触診の日。私の人生の最後の日。私は泣いた。無力さに泣いた。48年生きてきて、胸のふたつも満足に揉めないふがいなさに泣いた。むせび泣く声を妻に聞かれないよう、私はシャワーを浴びながら泣いた。頭を垂れる私の視界には、張りを失った中年の体があった。それにしても長い時間が流れたものだ。かつて「胸の先っちょ」と表現していた20代後半の妻も今や「ビーチク」などという蔑称を口にする中年である。僕の肉体も老いた。前も後ろも垂れてしまった。若かりし頃はわずかの刺激で「たちあがれ日本!」と起立し未来100年を照らす大灯台が股間にあった。灯台もと暗し。私は両手で己の尻をつかんだ。ぶよぶよした尻の感触は、幼き頃、夢中で吸った母の胸を私に蘇らせた。私はすでに揉むべき胸を手に入れていたのだ。シャワーの滴のなかで歓喜に打ち震える私を、かとうれいこ、細川ふみえ、秘技・高速道路空気揉みを教えてくれた亡き友と父が祝福してくれていた。おめでとう。ありがとう。(所要時間17分)