Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

老舗料理屋のテイクアウトを手伝って「自粛要請」「新しい生活様式」のぶっ壊すものが見えてきた。

僕は食品会社の営業マン、一昨日、取引先の料理店の店主オヤジから、「今後のことについて話し合いがしたい」と連絡があった。今のオヤジさんが三代目の古い日本料理屋。新型コロナの影響で売上が激減したため、先月、相談を受け、アドバイスをした。「今は、何よりも売上です」といってテイクアウトを提案。オヤジさんは口数の少ない人で「…やるしかないか」と了承。あまり気乗りしない様子であった。切羽詰まっていたのでポンポンと話をすすめた。計画立案。テイクアウト用容器の手配。宣伝。ときおりオヤジさんが何か言いたいことがあるけど言えない様子を見せた。気になったが、それ以上に時間がなかったので話を進めた。魚料理が売りの料理店であったけれど、生ものは避けた。オヤジさんが考えたメニューは高級すぎたので「こだわりはわかりますけれど、今は、こんな時代なので」つって、ランチタイムにあった内容に変えてもらい、価格を抑えた。「今は」「今は」「今は」といって奮い立たせた。売上をあげようと必死だった。僕は。お店は看板だけで一見さんが入りにくい雰囲気を醸し出していた。あるとき、オヤジさんは「ついていけないな…」と時代の流れに置いていかれる的な弱音を吐いた。言いにくそうにしていたのはこれか。僕は「テイクアウトで新しいお客さんが獲得できるはずです」つって励ました。実際はじめてみると、テイクアウトの評判は良く、売上もまずまずだった。儲けはないが、今月末まで耐えられる見込みは立った。来月からは仕切り直しで反転攻勢。そのタイミングの連絡である。

「感謝してるよ」まずオヤジさんは褒めてくれた。「本番はこれからじゃないですか」と照れ隠しをして僕がこれからのお店の戦略について説明をはじめると、オヤジさんは遮って「実はもうここらで店をヤメようと思ってさ」と言った。「冗談やめてくださいよ~」と笑うと「冗談じゃないよ」とオヤジさんは真顔で言い、雇っている調理人の就職先を見つけてくれるよう頼みこんできた。マジだった。理由がわからない。あと少しでトンネルを抜けられるのだ。新たな客だって見込める。理由を僕が訊くと、オヤジさんは「先代から引き継いだ店の看板の価値を下げてまで店を続けたくない」と教えてくれた。看板の価値?「意味がわからないのですが」と僕が正直に打ち明けるとオヤジさんは説明してくれた。オヤジさんの説明はこうだ。《世間のテイクアウトの相場にあわせて値段を下げたのは、これまでのお客さんをお客さんを裏切ってしまった気がしてならない。商売人として、一度下げたものを店を再開するからといって、何もなかったような顔であげられない》それがオヤジさんのいう「看板の価値を下げる」だった。「みんなわかってくれますよ」という僕のありきたりな言葉は、オヤジさんの「値段はさ、ただのものの値段じゃなくてお客さんとの約束なんだよ。約束は裏切れないよ」という言葉の前では無力だった。


オヤジさんは「ありがたいとは思っているよ」と言ってくれた。何も言えなかった。オヤジさんが何か言いにくそうにしていたのはこういうことだった。「ついていけないな…」は時代に向けてのつぶやきではなかった。僕のやり方に向けてのものだった。僕は売上をゲットすることを優先して、相手が何を大事にしているか、見落としていたのだった。飲食店が乗り切るためにはテイクアウトや通販しかない、という思い込みで突っ走ってしまった。突っ走るにしても、テイクアウトはランチ価格にするべし、と決めつけずに、もっとオヤジさんの店にあったやり方があったかもしれない。間違ってはいないとは思う。正直いってオヤジさんの言ってることのすべてに共感するわけではない。時代にあわせて変えることは悪ではない。だが、結果にこだわりすぎて、三代にわたって築き上げてきたものへの配慮が足りなかったのは事実だ。「みんな少しおかしくなっているよな」オヤジさんは言った。そのとおりだ。僕は少しおかしくなっていた。オヤジさんが「まだ迷っているところ」と言ってくれたのがせめてもの救いだ。


「自粛要請」「アフターコロナ」「新しい生活様式」なんて言葉はカッコよく聞こえるけれども、それらは、仕方ないことだとはいえ、これまで培ってきたものをぶっ壊し、切り捨てていく行為を意味していることは、忘れないようにしたい。僕に出来ることはオヤジさんが納得する結論を出す手伝いをして、「ありがたいと思っているよ」というオヤジさんの言葉を留保なしのストレートな「ありがたい」に変えることだ。その結論が店の継続なら、いい。オヤジさんのために。そして何より自分の社内的な立場のために。「店を潰したら支払わなくていいよな」「困ります」。金を回収できなくなるのは営業として痛恨の極みだが、そんなことより、社長案件なんだよ、このオヤジの店。(所要時間30分)

管理職はいらない。

過日、ビデオ会議の終わりに、部下Aから「部長!これからの日本は、管理職いらなくなりますね!」とストレートにいわれた。きっつー。どういう意図の発言かわかりかねるが、僕は少なからずキズついてしまった。日頃から「役職や肩書を気にせずに積極的に意見を言ってほしい」と言ってたくせに、彼のいう管理職が必ずしも僕を指しているわけではないというのに、情けない。

ここ最近、「新型コロナでなくなる仕事」という内容の、面白くない文章をネットでいくつも読んだ。どれもこれも予想がハズれても責任を取らないお気楽な文章で「こういう文章はお金をもらわないかぎり書くものか」と心に決めた。他人様の人生を馬鹿にしてるようで許せなかったのだ。だが、新型コロナ感染拡大にともなってテレワークに移行してみて僕は「管理職はなくなる」と無責任に予想するにいたった。正確には「管理職の数が少なくなる流れは止められない」である。平凡な管理職である僕にとって、この悲観的な予想は他人事ではない。

管理職は、ざっくりいえば、スタッフや業務を管理する役職で、上司とほぼ同義である。なぜ上司と同義なのか。それは立場が上の人間のほうが管理しやすいからだ。僕が社会人になった頃の管理職には、一日中デスクに座って(当時はまだPCのないデスクが多かった)、本を読んだり、繋がれた電話に出たり、ときどき説教めいたことを話す以外は、何の仕事をしているのかさっぱりわからない人が多かった。居酒屋で「昔はバリバリにやっていた」という伝説は聞かされるが、それは「今バリバリやっていない」の証明でしかなかった。さらに、部下と一緒に動くタイプの管理職は「上司のくせに」と社内でちょっとバカにされているような雰囲気すらあった。

このように、古来、謎の武勇伝と肩書や役職といったもので管理職は守られてきた。だが近い将来、ごくごく一般的な中小企業で今も生き残っている、こういった管理職は滅びるだろう。テレワークが導入されて、武勇伝や肩書や役職それからルールギリギリの恫喝で誤魔化してきた真の管理能力が浮き彫りになってしまったからだ。たとえば僕は営業開発部の部長で、営業という仕事しか知らない人間であるが、各種営業支援ソフトウェア等を使ってしまえば、管理業務に経験や能力はいらない。経験や能力はかえって邪魔になるかもしれない。プロジェクトの進捗状況や顧客の管理も余裕。はっきりいってしまえば管理という仕事だけなら誰でも出来る。しかも楽に。部署ごとに管理職を置く必要もないほど楽だろう。管理するだけの管理職なら今の人数は要らない。そういう人たちは、そのほとんどは年配だが、今、ハンコを持って迷惑な自己アッピールに必死だ。

一方、ソフトウェアがまだまだ弱いなと思うのは、次の一手、戦略を考え出すことだ。過去のデータから訪問時期や企画案候補を弾き出してはくれるが、意外性というか、面白みがなく、はっきりいって使えない。入力している顧客データがデジタルである以上仕方ないのかもしれない。スタッフのモチベーションを保つための仕組みもいまいちで、まだまだ管理職が上司というペルソナをかぶって喝を入れる必要があると感じている。これからの管理職は、管理(マネジメント)よりも戦略の立案やモチベータ―としての役割が強くなるのは間違いない。同時に、新しい仕事を発明していくクリエーターでなければならない。

つまりスタッフを管理することで評価されていた部分の大半が機械化自動化されてしまうので、それを補填するために、管理職もこれまで以上に創造的な仕事をして、かつ評価を受けなければならなくなる。管理も、適材適所で前例にとらわれないスピード感のある人材登用といった攻撃的な管理が求められる。ただ、日報を確認して電話するだけの受け身の管理をしているだけでは部下の人たちに「あの人仕事していないよね」と笑われてしまう。テレワークを導入しない企業の管理職も遅かれ早かれ同じ状況になるだろう。

ひとことでいえば、部長席に座って管理をしているだけの管理職はもういらない。告白しよう。僕は座っているだけの謎上司の滅亡に寂しさを覚えている。かつてのアホ上司のように何もせずに給料をもらえるような人間になりたいと願い、そういう将来のために頑張ってきた自分がいる。だが、何の仕事をしているかわからない謎上司の居場所がなくなって、成果を出し続けて仕事が明確な上司が部長席に座る状態は、真面目に働いている多くの人たちにとっては、いい傾向だろう。このまま加速していってもらいたい。

今勤めている会社に、ハンコ出社している上級管理職がいる。僕には彼らがハンコに固執するあまり、失っているものに気づいていないように見える。失っているものが、「仕事は何のためにやるか」「いかに効率的に進めるか」「ウチのような小さな会社が生き残るためには」といった、彼らが会議で口癖のように言っていることなのだから笑える。僕は、管理職の端くれとして生き残りたい。そのためには時代遅れのハンコみたいな管理職にならないよう、真面目に働くしかない。

求められるのは、特別な才能ではない。難しいこともない。毎日少しずつでもいいから、新しいものを生み出すよう努力すること。昨日と同じことをするなら昨日より容易に進めるよう改良すること。それらを心がけながら日々働いていれば、おのずと道はひらけるのではないか、と僕はポジティブに考えている。礎になるのは熱い気持ちだ。まずは、暑苦しいくらいの気持ちをもって「管理職はいらない」と言い切った部下Aをつかまえて「その管理職に僕は含まれるのかな?あ~ん?」と詰問することからはじめたい。こんな管理職は滅びなければならない。そう頭ではわかってはいるけれども心が…。(所要時間31分)

検索できない価値と、僕の思い出の川

記憶力はいいほうだと信じている。たとえば口座番号やマイナンバーは見た瞬間に記憶した。子供の頃、暗譜したブルグミュラーは今でも弾ける。1978年の3月に従兄弟が生まれて叔母さんの家に遊びにいったことも昨日のことのように再生出来る。呼び出せない記憶もある。どういうわけか呼び出せない記憶はどれも僕にとって意味があるものばかりだ。そのひとつが1985年5月に父親と僕、二人きりで川沿いに歩いたハイキング。どこの川に沿って歩いたのかどうしても思い出せない。

それでも僕はときどき11歳のときの、その小さな旅行を思い出す。なぜなら初めての父と二人きりの遠出だったからだ。いつも母や弟が邪魔をして父と二人で出かける機会はなかった。断片的な記憶はある。家を出てすぐに見かけた、病気で亡くなった近所の女の子のお葬式。参列する彼女のクラスメイトの嗚咽。出発地点へ向かう路線バスで話したタミヤのラジコンバギーのこと。河原で食べたオニギリの塩っけとたくあんを噛む音。そのとき見たカワセミの鮮やかな緑色のカラダ。父の前を僕は歩いた。細いアスファルトの道は、途中で曲がったり、未舗装になったりしながら続いた。ときおり後ろから声をかけられて、父の指の先にある風景を見た。水面に突き刺さる折れた大木。土手のうえの重機。川沿いの道は川から離れてしまうときがあって、夏草の向こうに川が流れているのか、不安になったこともよく覚えている。大きな岩に腰を下ろして、水面に石を投げながら「また来よう」「いつかまた」と話した。僕が思春期に突入し、父もそれから10年もしないうちに亡くなった。初めての父との小旅行は最後の小旅行となり、唯一の小旅行になってしまった。だから、ずいぶんと時間が経った今でもときおり思い出してしまうのだ。そして記憶との邂逅はいつも、僕らはどこの川を歩いたのだろう?というクエスチョンで終わる。

在宅勤務になった。僕は営業職なので、これほど長い時間、パソコンを前に座る生活は初めてだ。時間を持て余した僕は、ふと、何年かぶりに1985年の小旅行を思い出し、インターネットで検索して僕らが歩いた川を見つけようと思った。川は見つからなかった。記憶からそれらしいワードを拾い上げて、検索して調べてみた。いくつか候補は見つけたけれどどれも決め手を欠いた。ヒントを求めて母に小旅行のことをたずねてみた。母の答えは意外なものだった。「あんた、お父さんとそんなハイキングに行ったことないわよ」。僕の記憶違いなのか母の勘違いなのかわからない。断片的な記憶が明確なので可能性は低いけれど、小旅行自体が僕の見た夢ということもありうる。もっと記憶を細分化して検索していけば、いつかはあの川に辿り着けるかもしれない。だが、僕はもうあの川を探そうとは思わない。「また来よう」という言葉が作り物と確認するのが怖いのではなく、探さなくても、あの川が流れているのを僕が知っているからだ。検索しても出てこない川。存在の不確かな小さな旅。誰ともシェアは出来ないが、どちらも確かに僕の中にある。それで十分じゃないか。母の言葉がトリガーとなってそう考えるようになった。

80年代までの一般個人の活動はデジタルで記録されていない。もし記録されているなら、後日、改めてデジタル化されたものだろう。90年代の頭に亡くなった父は、デジタルの世界には存在しない。実際、ネットで父の名を検索すると出てくるのは、いくつかの論文だけだ。今は、データ化されていないもの、検索できないものに価値がない世の中になっている。ネットに上がっていないものは存在しないのと同義になりつつある。でも、僕は思うのだ。検索できない、デジタル化されていない、誰とも共有不可能で、淡く儚いアンタッチャブルなものをどれだけ持っているか、それが充実した良い人生を送れているかのひとつの指標になりうるのではないか、と。僕は、悪あがきで、もう一度あの川を調べてみようとしてみたけれど、それ以上の検索ワードは思い浮かばなかった。「どうだっていいじゃないか。そんなことは」と、記憶の向こうから、あの川のせせらぎをバックミュージックに「また来よう」と同じ声が教えてくれている、そんな気がした。(所要時間23分)

昨日、保健所に行った。

昨日、保健所に行った。なぜ、新型コロナ緊急事態宣言下に保健所へ行ったのかは後で説明するけれど、もともと、僕は仕事で許可申請や届出のために官公庁へ行く機会が多い。なかでも多いのが保健所だ。各種営業許可のために、年に数十回は訪れている。専門家会議の人が「保健所は新型コロナ関係で多忙を極めている」と仰っていた。にもかかわらず、昨日も、いつもどおりにいつもの対応をしていただいた。大変ありがたい。

保健所の営業許可申請手続きについてざっくり説明すると、営業開始一か月前くらいまでに図面等の書類を持参して食品衛生課へ相談(事前相談)に行き、その後書類申請をおこない、立ち入り検査を行ったうえで許可が下りると流れになる。つまり飲食店に掲示されている営業許可証は保健所が出している。ちなみに掲示場所は見やすいところ、目立つところとされていて、ファミレス等チェーン店ではレジの後ろに壁に掲げるよう定められていることが多い。営業許可については飲食店や乳製品販売等事業によって種類があるけれど、流れはだいたい同じだ。

事前相談には基本的にオンラインでは出来ない(僕がかかわった保健所は一か所もなかった)。そのため、書類を保健所の営業時間内(17時まで)に窓口へ持参しなければならない。そのあとにつづく営業許可申請(本申請)も同様にオンライン申請はなく、直接窓口に赴いて申請しなければならない。申請料を印紙でおさめる必要あるからだろう。ちなみにクレジットやペイでの支払いはできない。現金のみ。申請書には、実際の店舗の図面や店舗周辺の地図等を添付する必要がある。地図についてはグーグルマップを印刷して添付しても基本的にはオッケーである。申請書には所在地を記載されているので調べればいいだけのことだと思うが、きっと僕の想像も及ばない、紙に印刷する理由があるのだろう。僕は先月から、新型コロナ感染にビビりながら、これらの手続きを、隣県の保健所まで足を運んでおこなった。

つらつらと保健所のオンライン対応の不備について書いてきたが、実際の現場立ち入り検査だけはオンライン化出来ないのは理解している。保健所は公的機関のため、きっちりとした検査体制をしている。たとえば検査日時の調整設定。僕の経験から、保健所は検査日時はきっちりと設定する。日時を間違えたら空振りになってしまうからだ。その一方で、時間設定は午前か午後くらいのアバウトな設定になる。多忙を極めるため時間を確約できないという理由らしい。「午後のなるべく早い時間帯に行けると思いますが保証できません」みたいなことを何十回言われただろうか。つまり検査に立ち会う際には、半日そのために空けなければならない。うらやましいかぎりだ。民間企業が、しくじってはいけないお客様に「明日は13時から17時のあいだにお伺いしますので、待機していてください」と言ったら…考えるだけでおそろしい。

名前は伏せるが某保健所などは、午前中に行う検査の際、12時直前にやってきて10分程度パパッっと見ただけでハイ合格と言って帰っていった。設備的に微妙な店だったのでマシンガンのような厳しい指摘を受けると予想して、昼休みも潰れる覚悟であったが、公的機関らしく12時ピッタリに終わらせてくれた。素晴らしい。10分で隅々までチェックする職人の仕事に感動したのを覚えている。

先述のとおり、僕は昨日、保健所へ行った。すでに許可を受けている案件の、営業許可証をゲットするためだ。「公式ホームページに発行したパスを入れると営業許可証が表示されるのでプリントアウトすればオッケー」というわけにはいかない。原則窓口で手渡しである。このご時世なので郵送をお願いしたが無理であった。これが特定警戒都道府県の神奈川から隣県まで車で向かった理由である。営業許可証は保健所の営業時間中(17時まで)に窓口で受け取る必要がある。保健所によって多少手続きは違うが、検査時点で渡される引換証を窓口で渡し、帳面にハンコすると受領できる。ここでもハンコである。ちなみにシャチハタでも可。ハンコを忘れてもサインで受領できる保健所もある。ちなみに本人確認書類の提示といったチェックはない。引換証をゲットできれば誰でも受領できる人に優しいシステムだ。何のためのハンコなのか、よくわからない。

PCR検査等各保健所が新型コロナ対応で多忙をきわめているという話だ。だが、日常的に稼働している営業許可関係でこれだけ前時代的な非効率な対応をしているのだから、それにくらべて日常的とはいえない感染症対応で効率的な対応をしているとは到底思えない。保健所は厚生労働省の管轄の公的機関である。「国」である。保健所を例にしたが、官公庁や役所は紙ベースでの申請を要求するところはまだまだ多い。ハンコで書類受領も同じだ。御存知のとおり国はオンラインやテレワークを推奨して、不要不急の外出を最低限にするよう要請している。そのような要請をするのであれば、これら公的機関がまずこれらの手続き等を完全にオンラインで対応できるようにするのが筋ではないのか。最初はハンコをなくすことから。実は昨日、営業許可証受け取りの際に、僕はハンコを忘れてしまったけれど(駐車場に停めた車の中にあった)、サインで対応してくれたことには感謝している。ということはやっぱり、ハンコは要らないってことだよね。ご検討よろしくお願いいたします。(所要時間32分)

コロナの時代の愛はどうだ

新型 コロナの前からアルコール消毒をする人だった。ウチの奥様だ。彼女がアルコールを手指に吹き付けるのは、我が家では当たり前の光景だった。僕が神経質すぎやしないか?と笑うと、彼女は「管理栄養士の職業病かも」といって微笑んだ。穏やかな時代だった。手指のほか、家電や家具の手が触れるところ、ドアノブ、冷蔵庫のドアなどが対象だった。僕も、40歳をこえると、ドアノブ軍団に入れられた。僕が触れたところは消毒、消臭。手洗いを終えると光の速さで飛んできて僕の手のひらにアルコールをシュッシュした。そして、彼女の正しさは2020年に証明された。

母もアルコール消毒をする人だった。もっとも、その習慣が定着したのは、父が亡くなったあと、葬儀屋で働き始めたころだ。そこで手洗いのあとのアルコール消毒を学んだのだろう。もっと昔、たとえば僕が小学生低学年の頃は、今のようにアルコール消毒をする習慣は一般的ではなかったと思う。ポンプ式のハンドソープが世に出たのは体感的には昨日の出来事。小学校の手洗い場では、決まって、蜜柑の詰められていたような、赤いナイロンの網に入れられた固形石鹸がグニャ~と溶けていた。僕らは校庭で遊んだあと、その触りたくないグニャ~で泡立てて手を洗ったものだ。家でも固形石鹸で手を洗ったけれども、あの網に入っていないぶん、見た目がグロテスクでないぶんマシだった。母は「バッチーのちゃんと飛ばした?」といって僕の手洗いを目で確認した。母は僕の手をとって確認することはなく、そのまま走ってキッチンに戻った。それが当時の消毒だった。母。妻。僕の人生でもっとも近い場所にいる女性は、共にアルコール消毒マニアであったが、僕をバイキンマン扱いするのは奥様だけだ。母は誇り高い人。自分がバイキンマンを産んだとは死んでも認めないだろう。

2020年4月。僕の暮らしている神奈川県に新型コロナによる緊急事態宣言が出された。僕は原則在宅勤務。プライベートでは早朝の散歩と最低限の買い物以外の外出は自粛している。奥様と自宅にこもっている。平時から殺菌消毒の対象になっていたので、戦時体制になったら、銃後の僕はどれほど厳しい消毒や殺菌措置をされるのだろうか。僕はお尻にアルコールをひたしたソーセージを突っ込まれるくらいの覚悟は決めていた。彼女の正しさは、新型コロナという招かざる敵の登場で、証明されている。昨年病に義父は病に倒れた。ウイルスは致命傷になりうる。絶対に家族をウイルスには感染させないという決意を、彼女は言葉にすることはなかったけれど、彼女が「県内感染者数」を毎日記録している冷蔵庫のホワイボード(ミニ)で、僕は暗い気分になりながら知ることができた。僕は震えていた。新型コロナの脅威と彼女の仕打ちに。

だが、僕の予想は外れた。彼女は優しかったのだ。どこまでも。ひたすら。僕が風呂を出たあとで息を切らしていると「大丈夫?」と声をかけてくれるようになった。うっかり手洗いを忘れたら、烈火のごとく叱られたものだが、「忘れないでください」と注意されるだけになった。誰もいない街へ買い出しへ出かけるときは、玄関で見送ってくれた。仲が良くなったわけではない。来年2月から3月にベイビーが生まれるような気配はゼロ。家庭内で適度な距離、ソーシャルディスタンスを保っているような関係。それが薄気味悪かった。その謎はあっさりと解けた。

「もうキミにプレッシャーをかけるのはヤメました」と奥様はいった。神奈川県ではウイルス感染者との接触を完全に断つのは無理であって、もし感染者に触れても僕が心身ともに健康で抵抗力免疫力さえあれば感染する危険性は下がる、結果としてウイルスを持ち込まないようになるというのが彼女の理屈であった。「だから多少イラっとはしても、我慢しているの」と彼女は笑った。彼女はほぼ完全に自宅にこもっている。買い物など、外出をともなう用事は僕の仕事だ。すべて感染源の特定を容易にするため。僕のバイキンマンあつかいは1ミリも変わっていなかった。僕の免疫力アップのためにイヤイヤ優しくしてくれている現実を認めるのはつらいけれども、優しくされて悪い気分はしないからいいか、と考えなおして僕はやりすごした。新型コロナ前から駅ビルで咳をすれば知らない女性から汚物をみるような目で睨まれた。何年前かの暑い夏、汗だくで電車に飛び乗って窓の外の青空を見ていたら、スカートの短い女子高生から「こっち見んなオッサン」と睨まれたこともある。そういうつらい現実に比べれば、優しいだけで、いくぶんマシなのだ。

僕はなんとなく自分の存在を確かめたくて母に電話をかけた。この世界でただひとりの、僕を汚物あつかいしない女性。マザー。この連休中、新型コロナで実家に帰るのも控えていた。母さん元気?こないだお金入れておいたよ。3900円。サンキューマザー。母は言った。「お金もうちょっと何とかならないの?」「え?金額。じゃあ今から持っていこうか」実家は近い。「いや、いいよ。あんた昔から汚いからウイルス持ってきそうだもの」母も奥様と一緒だった。二人と僕とのあいだには、一般的にいわれるソーシャルディスタンスの10倍以上の距離がある。もしかしたら、月のほうが近いかもしれない。(所要時間24分)