Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

コロナ以前に戻さなくていい。

COVID‐19(以下新型コロナ)でバタバタした一年が終わろうとしている。前は「早く前の生活に戻りたい」というフレーズを耳にすると、「そうだよね~」と同意していた。だが今は、新型コロナ前の世界には戻してはいけないと考えている。

僕個人レベルでいうと、新型コロナによって、これまで幾度も創作のネタになってきた「人類共通の敵に立ち向かう」というストーリーが完全にファンタジーで実現不可能だと再確認できてよかった。「インディペンデンス・デイ」のようにエイリアンが地球を侵略しようとしてくる映画では、もろもろの問題を抱えている人類が一時休戦して、共通の敵に立ち向かっていくという王道ストーリーが展開されてきた。「こんなうまくいかないだろ…」と思いつつ、それらは、全人類共通の敵というありえない存在を前提にすることでファンタジーとして成立していた。「もしかしたらあるかも…」という、「ありえない」を味方にした希望もあった。

ところがガチで人類共通の敵「新型コロナ」の登場で、連帯して向かい合う人類のポジティブな一面とともに、分裂や対立といったネガティブな面も露わになった。SNSを眺めてみると、マスクする/しないだけでも分裂と対立が観察できる。このように感染対策がうまくいっていないのは、感染力の強さもさることながら、人間間の分裂や対立も大きかった。「インディペンデンス・デイ」のように、人類が一枚岩となって共通の敵と戦うというファンタジーはガチにファンタジーだと新型コロナは教えてくれたのだ。新型コロナと対峙するのは、専門家や感染症と戦った経験のあるエリアの人をのぞけば、ほとんどの人にとって初めての経験だ。だから、対策において失敗は避けられない。トライ&エラーで、失敗を検証して、改善しながら前に進んでいくほかない。そう考えるのが自然だろう。

だが、現実はどうだろう。過剰な「失敗を許さない」雰囲気から「失敗できない」空気が醸成されてしまっている。特にSNSに顕著で、失敗すれば批判だけでなく、誹謗中傷が吹き荒れてしまう。精神的に強くない人は、やらないほうがマシという後ろ向きになっても仕方のないところだろう。僕らは他人の失敗に対して厳しくなりすぎる傾向がある。失敗を許す寛容さを持つことが自他にとって必要なのではないだろうか。僕は営業部門の管理職をやっている。今年はうまくいかないことが多かった。新型コロナの影響だ。これまで常識だったものが有効でなくなった。逆効果になるものもあった。部下氏が「新型コロナのせいで」と言い訳するのも、最初は全員同じ条件だろ…と厳しい態度で接していた。それは傲慢だった。なぜなら僕自身が、世の中が変わってもこれまで長い時間をかけて構築されてきた仕事の常識は揺るがないと考えていたからだ。それは今が非常時で近い将来元通りになるという見込みからの考えだった。

だが、新型コロナの感染が長引くにつれ、元の世界には戻らない=従来のやり方は変える必要がある、と考えるようになった。そう考えることによって、初めて新型コロナにおける営業のやり方と真摯に向き合えるようになった。そして、新型コロナにおける営業の困難さに向き合ったことで、部下氏の「新型コロナのせいで」という言い訳に対しても、「しょうがないな~」と思えるようになった。新型コロナという新たな敵に対しては誰もがレベル1からのスタートなのだ。対策や対応はまだ構築されていない。完璧なものや鉄板はない。そうとらえなおすことで、自分だけでなく他人に対しても完璧を期待しなくなった。いいかえれば緩い諦念を持てるようになれた。人類共通の敵に対して一枚岩になって戦うという幻想は完全に壊れてしまったけれども、個と個が過度に期待せず、諦めつつ、足を引っ張らない程度の繋がりをもてば何とかなるのではないか。

2020年は新型コロナで大変な一年であった。これだけ地規模で世の中や社会に影響を与える事件を僕は知らない。46年生きてきたけれども知らない。だからこのような大きな事件の目撃者になれることを今は前向きにとらえたいと思う。人生にifはないのだから、嘆いてばかりもいられない。僕は新型コロナ前の生活や社会に戻れたら…とは考えない。戻してしまったら、また同じことの繰り返しになる。前には戻さない。前よりも良い方向へ変えていく。人間のイヤな部分が見えてしまって、幻滅してしまうことも多かったけれども、そういう感情と、時間や金や人命も含めた犠牲を無駄にしないように、世界をコロナ以前に戻さないことが大事なのではないだろうか。(所要時間28分)

※2020年もおっさんの戯言ブログにお付き合いいただきありがとうございました。来年もよろしく。このような戯言をまとめた本を出しました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

行方不明のご近所さんを捜索していたら「パンドラの箱」を開けてしまった。

過日、日曜の朝、土曜の夜から行方不明になったX氏を捜しにいった。Xは同じ中学に通っていた友人Yの父親で、僕は30年以上前のしゃきっとした姿しか知らないけれども、最近は認知症を患っていたようだ。そのXが土曜の夜9時に出たきり、行方不明になった。そして、近所の有志で捜索隊が結成された。軽度の認知症、足腰の弱体化、体力の衰え、思考の硬直化といった高齢化の症状いちじるしい捜索隊の現実を直視して絶望した母が、「土曜の夜からXさんがいないのよ。手を貸して」と超慌てて僕に助けを求めてきたのだ(友人Yは関西地方に在住)。

Xが最後に目撃された地点は隣市に向かう県道である。県道沿いはおそらく警察が捜索しているし、防犯カメラやドラレコも頼れるから、我々は人が通らない県道と市道から入った山道を捜索することになった。山道を、おーい、おーい、とXの名を呼びながら、歩いた。僕の声だけが響いた。シニア捜索隊は声を出すのもしんどいようで、声をあげる者はいなかった。「声を出していきましょうよ」「頑張りましょう」と声をかけた。驚いた。彼らは元気はつらつだったのだ。虫の息ではなく、ただの無視の域であったのだ。こうやって自身にとって都合のいい情報のみをゲットして、あとは聞こえないフリをするのも、無理せず老いていく知恵なのだろう。

僕は何か動くものがあっても見落とさないように、背をまっすぐに、視界を確保するようにして歩いた。Xは80代の高齢で、足腰も歳相応に弱っていたので、それほど遠くへ行けない。必ず見つけられる。山道を歩く。尾根に出て視界が開けるたびに、僕は背を伸ばして遠くまで見渡した。人の姿はない。シニア捜索隊は下を向いたまま、拾った木の枝で藪を叩いたり、山道の脇にある溝の中を眺めたり、おーいお茶を飲んだりしていた。山道を下る。片側は緩いガケだ。一番若い僕が最後尾になって高齢者の列から落伍者が出ないよう注意しながら進んだ。彼らは視線を上げずに下を見ながら歩いていて、時折、立ち止まっては左右の手が届きそうなヤブや木の陰を注視しながら歩いていた。「ガケ崩れ危険」とペンキで描かれた看板が崩れていて、その下をのぞき込んだりしていた。生きているものを探している姿ではなかった。諦めてしまっているように見えた。Xの最後の姿からまだ半日しか経っていない。最後を最期にしないために僕らは、いや僕は山道を歩き続けた。僕の声だけが山と谷に虚しく響いた。

午前中いっぱい歩いたが戦果ゼロ。いくらシニア捜索隊とはいえ、Xが僕らより速い速度で山道を歩いたとは思えない。なぜなら彼が同じルートを辿ったとしても、時間帯は夜間から早朝にかけてで、その闇の中を認知症を患ったXが僕ら以上の速度で歩けるはずがないと推測されたからだ。午後は午前中かけて来た道を戻るのみで、事実上、本日のゲームは終わりだ。捜索本部(僕の実家)にいる母にゲームセットの連絡を入れた。母はXの家族が捜索に対して協力的でないことを嘆いていた。「家族が本気にならないと…周りで出来ることには限界があるよ」「そーだね」「もっと家族のあいだで話あってもらわないとねー」「そーだね」と相槌を打ちながら母の言葉を聞き流した。

家庭にはその家庭の事情がある。外にいる者がそれを正確に知ることはできない。認知症のX。老夫婦だけの家。距離を置いている家族。いろいろなパーツからなんとなく全体像は想像できるけれども、それが実体かどうか、実体からどれくらい外れているのか、永遠にわからない。そして長い時間を共にしていた家族間でも分からないことがある。Xは痕跡を残さずに去っていった。家族に何も語らず人生から去ろうとしている。それでいいじゃないか、母さん。どれだけ言葉を尽くして語りつくしたとしても完璧に分かりあえることはない。生きることは花のようなものだ。時間とともに花びらは散っていく。花びらがなくなったら花の一生は終わる。散った花びらがそのまま腐ろうと、誰か知らない人の手で花束になろうと、花自身は知る由もない。それだけのことだ。

それでも僕は諦めムードを隠そうとしないシニア捜索隊にはムカついていて、その愚痴を電話の先にいる母に話した。「土曜にいなくなったのにジジイたちが諦めてしまって真剣に捜そうとしないんだよ」母の回答は意外なものだった。「それは無理でしょ。もうダメだと思うわ」母は諦めの悪い人間だった。勝負は勝つまでやめないタイプ。その母の諦めの言葉に、ガツンとやられた。僕は頭を殴られたように、母の老いと、彼女がXのように人生から去っていく日もそう遠くはないという揺るがない事実を思い知らされた。「母さんトシ取ったね…。そんなに諦めのいい人間になるなんて」僕は言った。

母は「先週の土曜日から丸一週間いないんだもん。さすがに無理っしょ」と明るく笑った。土曜って昨日かと…。僕の家族には言葉が足りない。圧倒的に足りていなかった。それから周りで座っていたシニアから「見つけても運べるかなあ」「運ぶのは若手の仕事よ」という声が聞こえてきて魂が死んだ。(所要時間28分)

こういう世知辛いエッセイをまとめた本を去年出した。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

トラウデン直美さんの環境配慮発言について僕が考えていること全部話す。

とあるフォーラムにおける、トラウデン直美さんの「店員に『環境に配慮した商品ですか』と尋ねることで店側の意識も変わっていく」という発言が反響を呼んでいる。賛否両論、大炎上で、「環境チンピラ」という酷いワードも見かけた。僕は賛成や否定もしなかった。出来なかったのだ。トラウデンさんと自分とを重ねてしまって、客観的にジャッジできなかったのだ。だから「素晴らしい心がけ」「可愛い」という賛辞も、「環境チンピラ」「意識高いwww」という批判も自分が言われているように思えて、賛否で引き裂かれるように、心身ともに消耗した。トラウデンさんと僕との共通点を検証して、自分はトラウデンではない、もちろんダレノガレでもない、と確認しなければ、回復は見込めないだろう。

今の職場に中途入社したとき、社長から「キミには新しい風を吹き込んでもらいたい。ベテラン社員たちの意識を変えてくれ。誰であっても遠慮はいらない。キミには私がいる」と言われた。社内に基盤を持たない中途採用の中間管理職の僕は社長の言うことを忠実に守った。おかしいと思ったこと。改善しなければならないこと。そういうものを見つけては、ベテランや長老であれ、誰であれ、ダレノガレ、関係なく意見を言わせてもらった。「ここはこうしたほうがいいですよ」「同業他社に比べるとここが劣っています。改善してください」と。社長の威を借りているつもりはなかったが、反応が鈍い相手に対しては、多少感情的になることもあった。「これは…どのような意図があってやったことですか?」「冗談ではないですよ?」と。相手に主導権をわたすように言葉を質問形にした。僕は質問をぶつけることによって相手、高齢化した上層部やベテラン社員の意識が変わっていくと考えていた。

トラウデンさんとまったく同じである。確かに意識は変わった。僕から、意識高めというか単に高い位置から質問を浴びせられた人の中には、「中途入社だから言えることってあるよね」から「外様のくせに偉そうでムカつっく」へ意識が変わった人もあらわれて、その結果、今も抗争は続いている。僕はオッサンに好かれるために仕事をしているわけではないので、抗争でも冷戦でも構わないが、社長の命令で意識を変えようとしただけなのに、という面白くなさは残っている。トラウデンさんの発言によって、僕は、相手の意識を変えようとする質問形の言葉に潜む問題に気がついた。僕も、そしておそらくトラウデンさんも、言葉を当てやすい人に向けてしまったことが間違っていたのだ。末端から組織を変えていく、とか、地道な積み重ねが世の中を変える、というストーリーは素晴らしいが、実際にはトップダウンで決めて落としてもらったほうが変革は速く、徹底的なものになる。だから、目の前にいる相手の意識を変えたいなら、言葉を向けるターゲットをよーく考えてみる必要がある。僕は社長から重役や古株の意識を変えてくれと言われた。だから重役や古株の意識を変えるべく彼らをターゲットにした。だが、それは違った。僕は「その人たちの意識を変えることは社長、あなた自身の仕事なんですよ」と社長へ意見するのが正しかったのだ。結局のところ、僕は、意識を変えようとして、一部からのヘイトの対象となってしまった。悪気はまったくなかったのに…。

トラウデンさんの思想や政治信条は知らない。はっきりいってどうでもいい。僕には関係のないことだ。だが、彼女が社会全体の意識を変えたいと思うのなら、言葉を向ける相手をよく選んだほうがいい。つまり、どれだけ素晴らしい言葉でも、時と場合と対象を間違うと、相手を傷つけ、多くの人の心をざわつかせ、ブーメランになって返ってくる。そのことを僕はトラウデンさんの発言とその後の炎上でそのことを改めて気づかされた。僕らは、つい、相手の意識や気持ちや行動を変えたいがゆえに言うべき相手を誤ってしまう。多かれ少なかれ大なり小なり誰であれダレノガレそういう経験はあるはずだ。問題をそのように認識できれば、誹謗中傷はなくなり、問題の核心と向き合えるようになるのではないか。誰かを叩くことは、別の自分を叩いていることでもあるのだ。僕らの心にはトラウデンがいる。ダレノガレがいる。トリンドルもいる。トリンドル最高。(所要時間22分)

こういうエッセイをまとめた本を昨年出しました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

敗北事業を黒字化させたら上層部からイヤな顔をされました。

「たいしたことないですよ」謙遜のつもりの言葉が、屈辱の言葉になってはねかえってきて、今も僕の心を苛んでいる。

10月中旬。冷凍おせち事業の担当者が体調不良で倒れた。後任選びは難航。なぜなら一昨年、昨年と2年連続でおせち事業は数値目標を達成できず、社内で問題になったのを、部課長クラスなら誰でも知っていて、かつ、今シーズンも担当者が倒れた時点では芳しいものではなかったからだ。進んで手をあげるのは馬鹿であった。しかし、僕が代理として任されることになった。馬鹿ではない。部門長会議における一部上層部の計略で任されることになってしまったのだ。「これまでの方法ではうまくいかない。法人向け営業に長けた営業部の血を入れて販売を抜本的に変える」が表向きの理由。「うまくいかない事業を押し付けたい。失脚させたい」が真の理由であった。

家庭用おせちのセールス経験ナシ。前年までのノウハウ(販路)は当てにならない。予算もない。時間もない。ないない状況なので、自分に出来ることをやっていこうと腹を決めて、これまで培ってきた取引先や見込み客に売り込んでポスターと申込用紙を置かせてもらった。おせち事業を担当していた部門は、小売店と代理店を介した通販に活路を見出していたけれども、僕は新たに販路をつくるほうがまだ可能性があると踏んだのだ。

結果的に家庭用おせち事業は前年実績を越えるどころか、目標を大きくクリアすることになった。新たな販路も寄与したけれども、昨年までとは需要が大きく変化したことが大きい。新型コロナ感染拡大からの家庭用おせちブームである。

12月中旬。部門長レベルの会議で家庭用おせち事業の報告をした。端的にいえば「目標を達成して大フィーバー状態。ゼッコーチョー!」と報告した。すると僕に押し付けた上層部が「ブームに乗っただけじゃないか。キミの実力ではない。誰でもできる」と辛辣な評価を下した。それで終わればよかった。上層部は「本来、営業部は専門外。ここからは専門の部門にやってもらったほうがいいだろう。お疲れ様」と続けた。勝ちが見えたので横取りである。確かにブームとトレンドに乗っただけで、何もしていないと言われても仕方がない側面はある。

だが、控えめにいってクソすぎた。家庭用おせちが専門外であるのは否定できない事実。これから年末にかけて数字を伸ばしていける自信もない。経験もない。上層部は「おつかれさん。あとは任せてくれ」「ここからはブームに乗って誰でもできるから」「もっと数字を伸ばしてみせるよ」などとふざけたことを言っている。もうダメだ。面倒くさい。もういいや。とヤケクソになったときである。社長が口を開いた。

「いや、ここまで事業が順調なのは彼のおかげだよ」空気一変。社長は「ブームに乗ったのかもしれないけれど、ブームに乗る運も才能」と切り出すと、上層部を睨んで「そこまで言うなら、担当者が倒れたときに自分が手をあげてやれば良かったじゃないか」と続けた。圧倒的援護射撃。おせち事業を僕から奪おうとしていた人たちの勢いは完全に鎮火。上層部は「社長が仰るなら…」と悔しさを隠しきれない様子であった。

「たいしたことはしてませんよ」僕は社長に言った。謙遜であった。自負もあった。上層部へのザマミロ感等いろいろあった。社長はすべて承知しているといった感じで「たいしたことはなかっただろう」と労いの言葉をくれた。「キミの能力があればこれくらいは余裕だろう」という意味の、たいしたことない、であった。称賛の意味もあった。いえいえ本当にたいしたことないですよ。運が良かっただけですよ。運も味方のうちだよ。と社長とイチャついていると、失脚カウントダウンを恐れた上層部が話に割り込んできた。「いやあ、本当にたいしたことないよ。」「たいしたことない。この勢いで続けて頼む。勢いだけでいけるよ」などと、社長に話を合わせているようで、巧妙に僕のことをたいしたことのない奴と馬鹿にしていた。
こうして三者三様の「たいしたことない」が三国志の魏・呉・蜀のごとく微妙なバランスで成立した。僕はいつか滅ぼされるのか、奇跡の全国統一を果たすのか。一番可能性が高いのは社長国の属国で在り続けることだけれども、属国には属国のプライドがある。なお件の家庭用おせちは本日予約上限数をクリア。上層部の歯ぎしりが聞こえるようだ。ざまあ。(所要時間21分)

このような社会人日記満載の本を去年出しました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

まるでコーヒーのおかわりを頼むように、妻は「離婚しましょう」と言った。

「離婚しましょう」奥様は言った。水曜午後8時。国道沿いのファミレス。道路に面して並ぶボックス席に、僕ら以外に客はいなかった。ヘッドライトが線になって右から左から僕らの前を通り過ぎていく。僕らは、お互いに、言うべき言葉を不発弾のように抱えていた。目の前には冷めたポテトフライとまだ温かいホットコーヒー。沈黙を破ったのは奥様だ。「離婚しましょう」まるでコーヒーのおかわりを頼むような言い方だった。

他人事みたいに言うなよ、と僕は言いたくなったが堪えた。感情を丁寧に排除することで、一時の感情に流されず、理性と意志で下した判断であることを、聞き手にわからせる意図が言葉から垣間見えたからだ。そして「別れを重いものにならないようにしたい」という気づかいが痛いほどよくわかったからだ。彼女はコーヒーカップを両手で包んでいた。何か大事なものを守っているように見えた。それが二人の過ごした時間であったらいい。

「もう限界でしょう。だらしのない生活態度。酒癖の悪さ。地鳴りのようなイビキ…」奥様は重大事件の判決を出す裁判官のように語りかけた。僕は他人事ではなく、自分のものとしてその言葉を受け止めた。それから耐え切れなくなって息を吐いた。息を吐ききって、この重苦しい場所から消えられたら、どれだけ楽だろうか。

淡々と判決理由を話し終えたた奥様に「まるで他人事だね」と言った。精一杯の抵抗のつもりだった。彼女は「仕方ないよね。お互いに頑張った。でも、もう無理…」と言うと両手をコーヒーから離し、顔を覆った。僕はいたたまれなくなって外を見た。窓の向こうではヘッドライトが左右から現れては消えていく。あの光の中にあるもの、光の向かう先にあるものが、またひとつ消える。二人はどこで間違ってしまったのだろう?いろいろと考えてみたけれど、わからなかった。彼女のことがわかる距離感に僕はいなかった。いたことさえなかった。

「今、ここで決めないとお互いにダメになってしまうよ」奥様は決意を確固たるものにするように一語、一語言い聞かせるように言った。それは市役所の年金コーナーで高齢者にわからせるようにゆっくり話をする担当者の話し方のようであった。そこには優しさと事務的なスタンスのふたつが矛盾せずに共存していた。どうしてそこまで他人事のように言えるのだろうか。ゆとり教育は何を教えてきたのだろうか。彼女はバッグから紙を出した。役所に出す書類だ。こんな紙切れひとつで、これまで繋がってきた関係が終わる。ハンコは、すでに死んでいる者に死亡確認のサインをするようなものだ。紙切れ一枚に別れがリアルであることを思い知らされた。せめて二人が神父の前で誓った永久の愛が本物であったと信じたい。

奥様は「今が最低の状態だから、これからは上がる一方になるだけよ。あなたも気を使う必要もないし、そんなあなたに私が気をつかうこともなくなる。万事がうまくいくのよ。何を恐れているの?」と他人事のように付け加えた。図星だった。恐れていたのだ。自分の目の前で、人生を変えてしまう決断がなされてしまうことの重さに、押し潰されそうになっていた。責任や世間体などではない。自分の前で決定される事の重大さに怯えていたのだ。おそらく、時間の経過とともにこの重さは消えてなくなるのだろう。

「子供がいないのが幸いだったね」と奥様は言った。多くの夫婦に子供がいないように、僕らにも子供はいない。まさか子供がいないことが最悪の中の希望になるうるとはその瞬間まで僕は知らなかった。「そうだよね。子供がいたら決断できなかったかも…」と彼女は言い、「子供がいなくて本当に良かった…」と言葉をつづけた。誰かにではなく自分に言い聞かせるようだった。「どう思いますか?」奥様から意見を求められた。死刑宣告を受けたあとに何が言えるのだろう?励ましの言葉。後悔の念。あるいはif。別ルートの人生。どの言葉もふさわしく、すべての言葉がふさわしくなかった。僕は「別れよう。別れたほうがお互いのためだよ」と言うほかなかった。「じゃあ決まりね」奥様は笑った。笑ったように見えた。別れは、平日の夜のファミレスであっさりと決まった。別れに映画のようなドラマはない。ただ、日常の中で淡々と決められて処理されていくのだ。僕らは処理の中を生きている。

ファミレスの駐車場から駅へ急ぐ彼女の背中を見ながら奥様は言った。「あの子、これで決心がつくといいのだけれど。学生時代から決めるときは人の意見が必要な子なの」「大丈夫じゃないかな。もう彼女もいい大人だから。それにしてもキミは他人事のように話すね」と僕は答えた。「だって他人事だもん。自分以外のことは、すべて他人事なのよ」と言って奥様は笑った。(所要時間25分)

このような日常エッセイを書きつづった本を昨年出しました。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない……