Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

反ワフヒン思想の親戚を否定せずに説得を試みました。

この記事については大人の事情により表現を一部ファジーなものにさせていただく。実は僕の従姉が反ワフヒン思想である。従姉は僕より5歳年上で、幼い頃、僕に、ダイターン3、ザンボット3、コン・バトラーVといったロボットアニメや、ゴレンジャー、デンジマン、バトルフィーバーJ、サンバルカンといった戦隊モノの素晴らしさを教えてくれた人である。もし、彼女がいなかったら、僕の人生はガンダムやザクの登場しない味気ないものになっただろう。あるいは、女性とのベッドの中でのバトルフィーバー中に「合体グランドクロス!」と叫ぶような恥の多い生涯を送ることもなかっただろう。僕の人生を屈折させた罪深い人。それが従姉という人物である。

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従姉とは10年近く会っていない。そういう距離があるからかもしれないけれど、彼女がどういう考えや思想を持っていようが、僕には関係ない。そもそも我が国は憲法において思想・信教の自由が保障されている。人様に迷惑をかけなければ、頭の中で何を考えてもよいのだ。脳内まで取り締まられたら、僕はとっくに吊るされているだろう。だからウチの母や伯父(従姉の父)が「接種しないなんてありえない」「もし感染したらどうするつもりだ」と憤っていても対岸の火事だったのだ。従姉は個人的な考えで反ワフヒンになったわけではなかった。芸術的大学で教えている夫、ならびに彼の両親でこれまた大学教授をしていた老夫婦が個性的な思想、伯父いわく、くだらねえ浮世離れしたアカデミックな考えから、従姉を巻き込んで反ワフヒンに走っているらしい。伯父からみれば、カワイイ孫までが、くだらねえアカデミックな考えに毒されて、反に走っているのも気に入らないそうだ。それぞれの考えを尊重してうまくやってくれればいいのに。

ここで僕の出番となる。気に入らない連中とは関わりたくない伯父の代理で、従姉と話をすることになったのだ。叔父にはいろいろと世話になっている。断るという選択肢は僕にはないのだ。先日、法事が終わったあと、従姉と話す機会があった。事前に「ホロナは風邪、通常のインフルのほうが死んでいる」「ワフヒンで制御される」という従姉の発言を聞き、対策は練っておいた。いきなり核心を突くのではなく、相手の側にたって、心を開かせるのだ。それが僕の立てた方針であった。「フミオ久しぶり…元気だった?」という、平和だった頃の雰囲気を醸し出して切り出してくるという予想は裏切られた。「あなたはワフヒン接種したの!何も考えずに!脳が死んでいるの?」初っ端からの戦闘モードに面食らう。

「姉さん、久しぶりなのに荒れていますね」と言って、一歩距離を詰めようとしたら、「ソーシャルディスタンス!近づかないで」と言われた。ワフヒン済の僕が未ワフヒンの人から近づくなといわれる…理不尽である。逆ではないのか。「ねえさん、僕は味方だよ。落ち着いてください」「そうやって騙そうとする」十数年前、従姉から「コスモホニャララ」「●素水」「オメガなんちゃら」を勧められた記憶が蘇ってきた。従姉と僕は紙一重だった。宇宙戦艦ヤマトのコスモタイガーで留まった者と、現実世界にコスモを求めた者。僕らのあいだにはほうれい線よりも深い溝があった。

「親子で考え方の違いがあっても、否定したり、敵対したりすることはないじゃないですか、姉さん」と僕は切り出した。「僕は否定しません。馬鹿と評価するだけです。内心で。ホロナは風邪ですよね。わからないけれどわかります。普通のインフルのほうが亡くなっている人が多いが姉さんの意見ですよね。なるほど、仮に、姉さんの言う通りにホロナがインフルほど危険ではないとしましょう」「そのとおりよ」「話を最後まで聞いてください。仮に普通のインフルで100人、ホロナで10人、それぞれ一日で亡くなったとします。ではインフル100人とホロナ10人が亡くなる=Aのと、インフル100人がなくなるだけ=Bとではどちらが亡くなる人が多いですか?」「Aよ」「ですよね。僕が言いたいのはどちらかが危険か、という話ではなく、インフルにホロナがアドオンされるのがヤバい。ということです。もっといえば両者の危険度を比較することにはそれほど意味がないということです。1か所の骨折より2か所骨折したほうが痛いということです」

従姉は沈黙した。しばらくして「それは詭弁よ。だいいち、あんたは操られている。あんたの話には意味がない。なにより子供の頃から変わらない人を小馬鹿にしたような言い方がムカつく」と彼女は言った。その後も従姉はよくわからないワンダー理論を繰り広げた。僕はそれを否定しようとは思わない。いろいろな考えがあったほうがいい。説得しようとも思わない。自分の信じるものを信じて安全な距離を取るだけである。「情報に毒されているあなたに何を言っても無駄みたいね。あなたみたいな人間全員の目を覚まさせないと」と彼女は言った。もう無理だ。僕は「どんな考えを持つのは自由だけど周りは巻き込まないでよ」と助言した。ジ・エンド。

彼女と彼女のファミリーは、いわば、ザンボット3の神ファミリーである。悪と戦っているのに、守っているはずの人類に煙たがられる神ファミリー。理解されなくても必死に戦い続けるしかない。僕に出来ることは従姉とそのファミリーが、激闘のすえにほぼ全滅してしまった神ファミリーのようにならないように祈ることくらいである。伯父は、くだらねえアカデミックな考え、と決めつけていたが、なにが従姉をそうさせたのか僕にはわからなかったので、わからないものをわからないまま受け入れることにした。社会に迷惑をかけなければいいが、別れ際に「あなたみたいな人間を救済しないと」などと救世主目線で話していたので心配だ。(所要時間38分)

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「『 007/ノー・タイム・トゥ・ダイ 』は面白かったよ」(ネタバレなし)

ずっと楽しみにしていた『 007/ノー・タイム・トゥ・ダイ 』がようやく劇場公開されたので、映画館で鑑賞しようとしたが奥様に止められた。理由は、緊急事態宣言が解除された直後に、映画館が入っている商業施設に出向いたら、浮かれた人たちが大挙して押し寄せている、人流がヤバいうえ、話題作ゆえ劇場内が過度の密状態が想定されるというものであった。なるほど、彼女の言い分は理解できた。彼女なりに僕の身を案じてくれているのだ。

一方で、納得できない部分もあった。なぜなら緊急事態宣言真っ最中の先月、彼女はご学友とショッピングモール内にある映画館で『科捜研の女/劇場版』を鑑賞していたからである。なぜ「科捜研の女」が許されて「007」が許されないのか。よくわからない。「科捜研の女」は比較的空いているからオッケーで、007は満席だからダメなのか。科捜研ガラガラ。それを指摘することは、テレビシリーズを録画して一話も欠かさず観ている、「科捜研の女」を愛してやまない彼女の人格を否定することに繋がりかねないので僕は口にしなかった。家庭内平和はすべてに優先するのだ。つか僕も「科捜研の女」劇場版を観たかった。僕だって、内藤剛志さん演じる土門刑事はテレビシリーズの予告で死ぬ死ぬ詐欺をやっているけれど劇場版でも死ぬ死ぬ詐欺なのか、榊マリコの別れた旦那は劇場版に登場するのか、確認したいことはたくさんあったのだ…。

そういえば、かつて彼女と映画館に行ったとき、二人の嗜好が激突して『ゼロ・グラビティ』と『永遠の0』を別々に鑑賞したこともあった。彼女のゼロは永遠で、僕のゼロはグラビティだった。そのときのことをいまだに根に持っているのだろう。執念深い人である。これが、『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』劇場鑑賞を断念したいきさつである。納得できないことでも、「言われてみればそうだよねー」と言って誤魔化し誤魔化して僕らは生きているのである。

そして運命の10月8日金曜曜日。僕が仕事から帰宅するや否や奥様が「007映画館で観てきた」と言った。うん。なるほど。意味不明。あなた僕が観に行くことを断固拒否していませんでしたか。だのになぜ。そこまでして僕の身の安全を守りたいのか。マウントポジションを取りたいのか。大人な僕は冷静に「面白かった?」と言った。これは社交辞令である。社交辞令だから面白い内容は開示しなくていいのである。だが、彼女はそのあと小一時間かけて、僕が楽しみにしていた007のほぼすべてのストーリーとオモシロポイントとオチを語りつくした。「マドレーヌとボンドには●●●が●●るんだよー」「クライマックスでボンドが●●になってさー」「ラストはボンドが●●になって●●を●●んだよー。ボカーン。泣けちゃったー。ボンドは鬼滅の●●さんみたいだったよー」という調子でネタバレトークをガンガンされた。

話を聞かなければいいだろうという意見は現実を知らない人間の戯言である。奥様の言葉をないがしろにすることなど出来るワケがない。僕に出来るのは、そうだね、良かったね、楽しそうでなにより、とアホのように相槌を打つことのみ。男は奥様という女王陛下の007でなければならない。だが、これだけは言える。ときどき「『永遠のゼロ』超泣けたー」などと言ってセンスに疑問符をつけてしまうこともあるけれども、基本的には超辛口のウチの奥様が「面白かった」と評価していたので『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』は面白い映画といって差し支えないだろう。僕はストレスで命が短くなっている。ガチでノー・タイム・トゥ・ダイになりそうだ。(所要時間21分)

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緊急事態宣言明けに出社したら営業部門のトップではなくなっていた件

僕は食品会社の営業部長。ウチの会社において役員と社員を識別するのは超簡単。パーテーションだ。デスクの周りをパーテーションで囲われているのが役員なのだ。だから、上半期の締めで先月(9月)おこなわれた役員会の後、エレベーターで会った役員から「キミには期待しているよ」と言われたり、僕の席の周りに梱包されたパーテーションが運び込まれたりしたので、「ついに取締役…」と武者ブルったのはここだけの話である。10月1日朝に臨時朝礼の実施が通達された。下半期を迎えて新たな人事体制の発表があるとのことであった。武者震いブルブル。

10月1日、1週間ぶりの出社。少し早めに会社に行ったら、僕のデスクがなくなっていた。「これが、かのサントリー社長の提唱する45歳定年制…」と血の気が引いた。営業部の島を見渡せるポジションにあった僕のデスクは、営業部の島に組み込まれていた。しかも西日がバチバチ当たる窓際。嫌がらせか。僕のデスクがあったポジションには、パーテーションに囲まれたデスクが置かれていた。直後の朝礼で、僕の上に営業部門を監督する取締役営業本部長を置くことが発表された。営業本部長、営業部門のトップである。僕の役職と仕事は変わらない。けれど、なんだろう、この降格感。気の毒に思われているのか、同僚も目をあわせようとしない。

どうやら先日の役員会で社長派と専務派との争いが激化した結果らしい。社長派ではない僕を社長派と思いこんでいる専務派と、僕が社長派ではないことを熟知している社長派とのあいだで勃発した何らかの係争において、「じゃあ営業部長のうえに役員設置で手を打とう」という謎の合意がなされたそうだ。専務派からみれば社長派から一本取った感を得られ、社長派からみれば痛くもかゆくもないという双方にとってメリットのある落としどころである。僕、生贄じゃん。きっつー。

問題は新たに営業本部長となった取締役で、ずっと総務畑を歩いてきた営業のエの字も知らない、髪をアイパーでキメた70代で、耳が遠いうえ、初っ端から「営業のことはまったくわからないからわかるように説明してくれ」「立場上報告は聞くけれども実際の責任者は君だからね」と言われて絶望している。歴代の取扱注意上司は「俺は営業のプロ。アマの意見は聞かない」「顧客ごと木っ端みじんにしてやる」「腹を切って話し合おうや」と言うような人間失格かつ能力皆無であっても、営業畑を無為に突っ切ってきたという謎の自信をベースにした営業マンとしての誇りを押し出すタイプだったのだが、今回の営業本部長は営業という仕事に対するこだわりややる気がゼロであるため、非常にやりにくい。2日しか仕事をしていないけれど、報告や連絡をしようにも、パーテーションの向こう側で「営業の話はわからないよ」「今、じゃないとダメ?」「うまくいきそうな話だけ進めて。ダメそうな話は止めておいて」「キミが実質的には営業の責任者だよ」「報告は怠らないで」「報告は必ず書面で」と言うばかり。まともに対応してくれない、暖簾に腕押し状態。先が思いやられる。つか、めんどくせえ。

しかし、僕のことをよく思っていない一部上層部が意図せず、僕の嫌がることを的確にやってきているのがムカつく。半期だけに社長に反旗を翻すのは勝手だけれども、無関係の僕を巻き込まないでほしいものである。あと、窓際席、西日アツすぎ。(所要時間19分)

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【告知】新刊『書くことがすべて(仮)』が出ます。

情報解禁できるようになったので告知を。2年ぶりに『書くことがすべて(仮)』という本を出します。発売日は今冬(12月予定)で今回もKADOKAWAさんからです。

内容をひとことであらわすと、「書くことで構築した世界観を武器に人生を切り拓いていこう」という文章術×人生論です。実用本です。書くという行為、物語るという行為で人生を軽くする方法、文章術やライティングという技術的なアプローチではなく書くものをつくるというアプローチから誰でも思いのまま個性あふれる文章が書けるようになる方法について、僕の経験から得たものを全部ブチ込みました。

書きたいけど書けない人。悩みや不安を抱えている人。力を出し切れてない人。夢や目標がはっきりしない人。仕事や研究がダルい人。未来が恐ろしい人。そういう人たちのために書きました。書くだけで僕は自分の人生を上向きにすることができた。書かずに普通の会社員生活をしていたら、おそらく仕事のストレスで心身を壊していただろう。書くことが仕事(副業)にすることもできなかっただろう。なにより、書くことによって、自分の人生や自分というものを取り巻くもやもやがはっきりとわかるようになったのが大きい。悩みや敵の姿が明確になったのだ。そういう経験を皆さんにも体験してほしい。そう思いながら書きました。

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文章の書き方を学んだことのない、こづかいが少なく、時間もない、ただの会社員の僕が実践してきた方法、つまりローテク・ローコストの文章本なので誰でも、このブログや僕がメディアで書いてきた記事や書籍レベルの文章が書けるようになれるはずである。『書くことがすべて(仮)』この冬KADOKAWAより発売。なお、タイトルが未定のため書影がないので前著の台湾版の画像を貼っておきます…。よろしくね。

 

前著です。→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

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人脈づくりで営業マンは地獄を見た。

スマホに謎の着信があった。番号は通知されている。相手は不明。携帯電話を持つようになってから25年以上同じ番号を使っているので、今でも月に数回程度、「謎の着信」がある。「間違い電話」や「知り合いの新しい連絡先からの着信」といった例外を除くと、謎の着信のほとんどは僕の過去に原因がある。無鉄砲な人脈づくりだ。営業という仕事をはじめた頃、上司や先輩から、執拗に人脈の大切さを教えられた。人脈は、錬金術、魔法、バイアグラであると。人脈は、不可能を可能に、閉塞を打開する、チート武器であると。

1990年代後半。上司や先輩からの圧力で、実態は命令による強制だが、自発的な行動という名目で、僕は一時期、仕事が終わったあと、同業他社との勉強会や、保険会社や銀行・信金や商工会が催す異業種交流会といったものに足を運んで、名刺配りマシンとなっていた。「何かございましたら」「困ったことがあったら」などと心にもないセリフをアホみたいに繰り返して名刺を配りまくった。目線があった瞬間に口角をあげて笑みを浮かべる気味のわるい名刺交換の最中に「もっと効率的なやり方があるのではないか」と自問自答したのをよく覚えている。だが、あえて、わざわざ、いちいち、足を運び名刺を交換して仕事や夢について語ることに美徳を見出していている周囲を目の当たりにすると、「自分が間違っているのではないか?」と思い直したのだ。

人脈とは何だろう?ひとことでいえば、困ったときに相互に助けたり助けられたりする人間関係になるのではないか。イメージとしては日常的あるいは定期的につながりのある、仕事や学業や研究での人間関係よりも、つながりが薄く、広い範囲の人間関係だ。

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▲人脈(理想)のイメージ

仕事で追い詰められたときに、ふと思い出して「●●ちゃん!ちょっと困ったことになっているのだけどさ。力になってくれない?」と電話をかける、みたいな感じ。

だが、僕の経験では、苦労して名刺を配りまくって作り上げた人脈が役に立ったことはない。ないのだ。もちろんゼロではない。けれども、結果からみれば、時間と労力といったコストに見合うものほどのリターンは得られなかった。人脈はギブ&テイクの関係である。困ったときに助けてもらうためには、相手が困っているときに助けなければならない。人脈が増えれば増えるだけ、こちらから助けたり相談を受けたりする機会が増えた。それがストレスだった(もちろんビジネスに発展する可能性はあるが)。

人脈を拡大・維持するコストが馬鹿にならなくなったのだ。ギブ&テイクの関係性、言ってみれば「正しい人脈」を掘り当てることもあるが、人脈のほとんどは双方にとってメリットのない関係であったり、ギブあるいはテイクだけの一方的な関係であったりした。実際問題、僕にコンタクトしてきたのは、僕からテイクしようとする人ばかりで、ギブ&テイクのバランスはとれていなかった。なかには詐欺まがいな話を持ち掛けたり、搾取しようとしたりするような悪人もいた。一方的な圧になり、ストレスになった。

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▲人脈の実際

だから僕は、食品業界へ転じる際に、これ幸いとばかりに、苦労して作り上げた人脈をすべてカットした。携帯(当時はまだスマホはなかった)と手帳のアドレス帳から何百という人脈を削除した。無理に関係性を拡大するのではなく、普段の仕事その他と繋がっている関係性を地道に広げて、パイプを太くしていく方向性にシフトしたのだ。

人脈をばっさりカットしたけれどもまったく困ることはなかった。それがファイナルアンサーだろう?結局のところ無理につくりあげた人脈はその程度のものであった。振り返ってみると、人脈づくりの底にあったのは「仕事やってる」感だった気がする。さて。スマホにあった謎の着信は、予想通り食品業界に来る前の人脈づくりで連絡先を交換した人からのものだった。僕がまだ運輸系の仕事をしていると思ってコンタクトしてきたらしい。20年間もまったくやりとりをしていない関係性でコンタクトしてくるとか…人脈……おそろしい子!(白目)

人脈づくりに没頭していたあの頃(90年代末)、一緒に人脈づくりをした営業部の同期がいた。僕が名刺配りマシンなら、そいつは人脈原理主義マシンだった。「コストに見合わない」という僕に対して、人脈原理主義君は「大きなリターンを得ればコストは問題ではなくなる」という信念をもっていた。仕事中も電話やメールを駆使して人脈づくり。仕事を終えれば人脈づくり。休日もゴルフコンペや交流会で人脈づくり。作り上げた人脈を維持するために酒、ゴルフ、コンペ。あらゆる場所で人脈づくり。海で人脈、川で人脈、山脈で人脈。憑りつかれたかのように、よく知らない人たちと酒を酌み交わして名刺をばらまいていた。

細身のカラダからは想像できないほどの心身のタフネスが備わっている彼だからなせる業であった。僕は彼がうらやましかった。「コストに見合う/見合わない」という計算をせずに、補給線を無視して前線を拡大する軍隊のような真似は僕にはできないからだ。もっとも、僕が退職するまでに彼が大きなビジネスをゲットすることはなかったが。

過去の人脈からのコンタクトをきっかけに人脈原理主義君に連絡を取ってみた。メールも電話も死んでいた。どうやら僕は人脈原理主義者の人脈から落選したらしい。「使えねー」と判断されたのだ。なんかムカついた。文句のひとつでも言わないと気が済まなくなり、共通の知人(かつての同期)に20年ぶりに連絡をとり、人脈原理主義君の連絡先を教えてもらおうとした。運命は無慈悲であった。

「あいつは死んだよ」と言われた。知らなかった。10数年前に彼は死んでいた。酒で身体を壊してあっけなく逝ってしまった。因果関係はわからないけれど、僕にはあの人脈づくりが祟ったとしか思えなかった。「コストは気にしない」と言っていた彼は大きなコストを払ってしまったのだ。

人脈づくりは否定しないけれども、本来の目的から、そして時間と労力といったコストから見直して、ときどきカットして、無理なく計画的にやってもらいたいものである。人脈なんてもともと薄い関係なのでカットしてもオッケー。無理に維持する必要なんてないのだ。人脈づくりはほどほどに。いのちだいじに。(所要時間44分)

働き方についてのエッセイを多数収録した本を書きました→ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

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