Everything you've ever Dreamed

ただの日記です。それ以上でもそれ以下でもありません。

「私の才能が正当に評価されていないようですね…」と部下は言った。

営業部門には、ときどき、他部門で能力や才能を発揮できなかった人が異動してくることがある。僕は食品会社の営業部門の責任者をやっていて、現在、部下の何人かは他部門でハマらなかった人である。本来なら新人を営業マンに育てるほうが楽だ。だが、厄介な人を戦力化することができたら、マイナスをプラスに転じた点で非常に大きい。「金を残すは三流、仕事を残すは二流、人を残すは一流」という言葉がある。金も仕事も残せなかった僕に残されたのは人を残すしかないともいえる。

私事だが50才手前でサラリーマン終活を始めている。緩やかにサラリーマンを卒業するつもりだ。30年弱のサラリーマン生活を色にたとえるとウンコ色。酷いものであった。そして酷いサラリーマン生活だったからこそ最後は「人生をかけてひり出したウンコを堆肥にして部下という名の花を咲かせ、自らのエンディングを飾りたい」と考えたのだ。

他部門でハマらなかった人たちも戦力として活躍している。即戦力中途採用営業マンと比べてしまったら酷だけれども、新卒の営業マンとの比較では成績面ではほぼ同じだ。だから社会を知っている面倒くささとベテラン特有の力の抜くクセにさえ注意して、エースとしての活躍を期待しなければ、十分戦力にすることができた。そう自負している。

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  • アンソニー・ホプキンス
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もちろん例外はある。半年前に仕入れ部門から異動してきた部下A氏(59)だ。レクターというニックネームから、かの有名な『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターのようなキレキレのサイコパスなのかと思ったら、レクターを演じたアンソニー・ホプキンス似の疲れたおじさんであった。Aことアンソニーは営業マンとしての仕事ぶりは平凡であったが、とにかく社内での評判がよろしくない。さまざまな要因があるがもっとも大きなものは、他人に協力を求めるときの〆切がキツいことであった。

たとえば「商品サンプルを新たに作ってもらえますか」「いつまで」「遅くても明日の午前中までに」といった具合に、容赦ない社内納期を突き付けるのである。客先からの納期がキツイこともあるが、その大半は、話のあった時点で相談せず(アンソニー曰く「案件をあたためていた…」)に時間切れ間近になったとき相談を持ちかけるという彼の謎な仕事のやり方にあった。アンソニー曰く、「連中は尻に火をつけた方が仕事をする…」。

そのような調子なので他部署からのクレームが僕のところに届くようになった。僕はアンソニーの代わりに謝罪して、教育指導して今後はこのような事態にならないように注意するといって場をおさめた。一方、アンソニーには、人に仕事を振るときには相手の事情を察してなるべく早めに相談するように、段取りはなるべく早めに、その結果同僚の時間的猶予に繋がるから、と口を酸っぱくして指導した。その甲斐もあって、アンソニーの仕事の進め方も安定し、改善してきていた。「私の才能が正当に評価されていないのが不満ではありますが…」といちいちアンソニーが言うのは聞こえないふりをした。段取りを早めに、相談を早めに、その結果が同僚の時間的猶予になる、と。それさえ徹底させれば大きな問題は起こらないと考えていた。僕は甘かった。

昨日、得意先から有力案件を持ち帰ってきたアンソニーが他部署と打ち合わせをしたらまた紛糾。理由は納期キツすぎ。アンソニーに事情聴取をすると、「部長(僕)に教えられたとおりに仕事をしただけなので問題は私にはありません。問題は部長の教えてくれた進め方にあります。残念ですが…」と淡々と言った。レクター博士のような口調で。10年前の僕なら言い返していただろう。だが今の俺は冬のライオン。退職を視野にいれた中年サラリーマン。もうハートに火はつかない。粛々と「何があったの?」と質問した。アンソニーは確かに僕が教えたとおり早め早めに段取りをしていた。そして僕の教えどおりに企画提案書の〆切を客先が提示した日時より前倒しにしてきたという。「部長の言うとおりに段取りを早めにしました」とアンソニー。きっつー。「同僚に時間的猶予を与えろとも教えたはずだよ」と意見するとアンソニーは「段取りは早めに、相談を早めに。その結果としての時間的猶予。言われたとおりにやった結果がともなわなかっただけです。残念ですが」と淡々と言った。なぜなのどうしてなの何なのコイツ。僕とアンソニーの間に重苦しい羊たちの沈黙が流れた。

とりあえず取引先には僕が詫びを入れて納期を年明け第二週末まで伸ばしてもらい、関係各所にスケジュールの変更を伝えた。アンソニーには、繰り返し説いて彼も「わかりました」と言っているけれども「私の才能が正当に評価されていないようですね…」とも愚痴っているので期待はしない。僕に出来ることは彼に指導しつつ「僕はあなたを正当に評価するよ。周りの雑音には左右されないから安心してほしい」と告げることだけである。彼は偏見なくノイズをカットして正当に評価されればプラス評価を下されると信じて疑っていないが、正当にマイナス評価を下すことだってあるのをそろそろ知ったほうがいい(所要時間44分) ※2022年もありがとうございました。近況はツイッターにて→フミコ・フミオ (@Delete_All) / Twitter

 

メガヒット中のアニメ映画鑑賞中に覚えた違和感について。

大ヒット中のアニメ映画「すずめの戸締り」をみた。面白かった。大絶賛ではない。ネガティブな意見をいうと信者の人から叩かれるので表記を、特定できないように「●の●●り」としておく。一般常識のある大人なら何について語っているかわかるはずだ。前提として申し上げたいのは今振り返れば作品鑑賞中に僕が「●の●●り」を楽しんだということだ。「●の●●り」は十分に満足できる体験であった。今でもときどき劇場での「●の●●り」体験に思いを馳せている。

鑑賞前に「面白いとか面白くないという評価に当てはまらない、人生にとって大切な作品」みたいな薄気味悪い感想をSNSで目にして、大昔に映画「一杯のかけそば」を観たときに似たイヤな予感がしていたけれども、杞憂であった。確かに、女子高生が世界を救うために走り回る展開も、このシーンではああいう音楽が鳴るのだろうなという予想通りに予想通りの音楽がかかるのも、新海監督作品あるあるなのだが、上質なエンタメ作品に仕上がっていた(と僕には思えた)。もちろん、若者のロードムービー調ではない作品を見てみたいし、起用している特定のミュージシャンから離れた作風を期待したいという思いは、ある。後者については人によっては特定ミュージシャンの2時間PVに見えないこともないだろう。これらの言いがかり的な注文も新海監督の近作の作風といえばそこまでだろう。しかし、女子高生が走り回ったり、特定ミュージシャンの音楽が流れるたびに、この「●の●●り」からやけにムズムズとした違和感を覚えたのも事実なのだ。また、東日本の震災が大きなファクタになっていて、その描き方がいささか軽いものに見えたのは驚きだった。極論をいえば、他の災害や事故でも代替可能な描き方であった。これはポジティブな描き方だろう。東日本!大震災!と身構えずに普通のスタンスかつ冷静に震災と向き合えるようになったことの証左ともいえるからだ。

「すずめの戸締り」は良い作品であった。付記しなければならないのは、女子学生が日本中をかけめぐる姿をみて、僕の「●の●●り」がむずむずと痒くなってしまったことだ。有識者の皆さんは「●の●●り」が肉体においてどこの部位を指しているのか、説明はいらないだろう。「すずめの戸締り」を奥様と劇場で鑑賞しているとき、僕は己の「●の●●り」に耐えがたきカユミを伴った違和感を覚えた。前々前世の小刻みなビートでシートにこすりつけてもおさまらなかった。しかたなく、僕は、劇場のシートから腰を浮かせ、心の中で「お返し申す」と叫びながら「●の●●り」をポリポリとかいた。人生の伴侶の傍らで。だが「すずめの戸締り」のように痒さに鍵はかけられない。結局、エンディングまで「●の●●り」から猛烈な痒さをともなった違和感は消えなかった。集中できなかったので「すずめの戸締り」はもう一度劇場で鑑賞するつもりである。冒頭から「すずめの戸締り」と「●の●●り」のレビューが混在していまったのでこのへんで僕のターンは終わらせて皆さまにお返し申す。(所要時間18分)

不登校YouTuber君を批判する人たちは「自分の人生を否定されたくないだけ」である。

SNSで情報収集できない中高年なのでネットの情報収集はヤフーアプリに頼り切りで、頼みのヤフーがユーチューバ―の情報をトップに載せるものだから、そこそこユーチューバーに詳しくなっている。そのなかで先日クラファンで日本一周を達成した不登校ユーチューバ―君が大きな話題になっている。だがコメントのほとんどは批判だ。SNSにおいても彼に対しては批判や否定的意見が多いようだ。中には誹謗中傷のようなものもある。彼のチャンネルはユーチューブのおすすめに出てきたタイミングで観たことがあるくらいでまったく詳しくない。だが、ヤフーが取り上げるくらいなのだから、日本国内でトップレベルの登録者数と再生回数を誇っているのだろう。注目されているからある程度の否定的な意見や批判はしかたない面はあるけれども、彼に対するものは「しかたないレベル」を超えている。有名税という言葉で許されるものではない。

「学校に行かずに遊んでいる」「他人のカネに頼っている」「取り返しのつかない人生になるぞ」という彼に対する批判の根底には、僕たちが歩んできた学校に通い卒業して就職して働くという人生が否定されているようで、なんとなくムカつくという感情があると思われる。人間は、自分に出来ない人生を歩んでいる人に対して二つの感情を持つ。ひとつは「羨ましい」であり、残りは「何かムカつく」である。両者がごちゃまぜになって、成分の多いほうに支配されるのだ。不登校ユーチューバ―君が「何かムカつく」という感情を喚起させるのは、「多くの人間がやってきたことを踏んでいない」うえで「まだ何も為しえていない」からだろう。スターが、スター足り得るのは、多くの人がやってきたことを踏まえていなくても、為しえている圧倒的な実績と結果があるからである。まだ若い不登校ユーチューバ―君が結果や実績を出しているはずがない。当たり前だ。それを批判するのは大人気ないというものだ。

実は僕らは不登校ユーチューバ―君が羨ましいのだ。羨ましくてムカつくのだ。告白しよう。彼が滅茶苦茶うらやましい。学校に行かないという生き方を、僕もやってみたかった。子供の頃、小学校を卒業するくらいまでは、学校に行かないで冒険する日々を毎日想像していた。馬鹿な、何の才能もない子供だったので、学校に行かなくなったら社会の落伍者になると気が付いた。気が付いたのは中学生になったときだ。ごくごく平凡な人間はその年齢で気が付く。「あ、やべえぞ」と。だが不登校ユーチューバ―君は平凡な人間ではない。ひと目でわかる。ルッキズムっぽい視点になるけれども不登校ユーチューバ―君は聡明な顔と表情をしている。結果はまだまだだが結果が約束されている男の顔だ。中学生時代の僕とはレベルが違う人物に見える。彼に対して批判する人たちは、彼がこれから叩きだすであろう圧倒的な結果を認めたくないのだ。なぜか。自分の人生が否定されるからだ。彼は学校に通わなくても僕らとはまったく異なる成長曲線を描いていくのは明らかだ…弾道ミサイルのロフテッド軌道のような、通常より高い高度を飛ぶ成長曲線を描くのではないかと個人的には想像している。ロフテッド軌道は通常の軌道よりも飛行距離がでないという意見もあるけれども…それはさておき、ああ、僕は彼が滅茶苦茶羨ましい。学校に行かないことも圧倒的な才能も約束されている結果も、羨ましすぎる。

不登校ユーチューバ―君は人生を賭けている。人生を賭けている人間を部外者が馬鹿にしたり、批判したりするのは少々大人気ないと言わざるを得ない。学校に通わなかったらどういう人生になるのか。僕らはそういう人生がどうなるのか経験と教育からほぼ正確にイメージできる。だから普通はしない。止める。結果は分かり切っているが、あえて一度きりの人生を賭けてテストしてくれている彼は現代の勇者である。僕らのイメージを超えるような人生を見せてほしい。上に超えても下に超えても他人様の、他人様がすすんで選んだ人生なのでどうでもいいではないか。批判や誹謗中傷などもってのほかだ。人生の先輩として、関心を持たないのなら動画を再生せず彼の話題をミュートして彼が結果を出すまで生温かく見守ればよい。批判はいらない。一人の男の、人生を賭けた実験を見守りたい。僕はそう考えている。余談になるが、不登校ユーチューバ―君の父親が、僕のような学校に通って会社で働く、思考の硬直した人間を社畜と呼んでいるという内容のネット記事を見た。ロフテッド軌道で高く上がっている優秀な人からは下々の人間はそう見えてしまうのだろう。マンモス悲ピー。その理屈なら学校に通わずに家に居つづける人は家畜になってしまうのではないか、と愚考する次第だが、このようなつまらない思考をしてしまうのも学校教育を受け続けて硬直化した思考のもたらす哀れな結果なのだろう。きっつー。(所要時間28分)

48才で『スプラトゥーン』をはじめた。その切実な理由について。

『スプラトゥーン3』で遊んでいる。前作前々作をプレイしていないので『3』からの参戦になる。スプラは、ウィキペディアによれば、プレイヤーキャラであるインクリングを操作し、ブキを用いてインクを放ち、地面を塗って陣地を広げたり、敵にインクを当てることで倒して戦うゲームである。撃ち合いで負けることが多いけれど悔しくて楽しい。スプラ3は記録的な売上をあげている(特に日本では)。その人気にあやかってPV稼ぎなんだろうね、人気の秘密について書いている記事も多い。いくつかをピックして読んでみた。つまらないものから最高につまらないものまで様々な文章だった。「撃ち合いだけで勝敗が決まらない秀逸なゲームシステム」「前作からの正統進化系」「正直いってマンネリはある」等々上品ぶった文体で平凡な分析がなされていた。後からもっともらしい理屈と理由をつけているような印象を持った。スプラで遊んでいる人間はもっとプリミティブな衝動に動かされている。間違いない。その衝動とは「粘性液体をぶっかけたい」という誰もが多かれ少なかれ持っているものだ。壁に床に柱に粘性液体を塗りつける。人体に、顔面へ、粘性液体を発射する。プリミティブな欲望を満たすために俺たちはスプラ3で遊んでいるのだ。否定できないだろう。秀逸なゲームシステム?はぁ?偉大なるマンネリ?はぁ?正当進化系?はぁ?という溜息が出てしまう。そんな理由は後付けだ。粘性液体をぶっかけたい。その一言に集約されるのだ。

大人になった俺たちは他人に液体をかけられない、うだつのあがらない人生を送っている。かつて子供だった頃、俺は地面にびゃー!隣家の壁にびゃー!幼馴染の郁子ちゃんにびゃー!と泥やスライム、その他もろもろの粘性の液体をぶっかけて回った。だが時は経ち郁子はオバハンになり、隣家の壁の向こうでは孤独死した住民が見つかった。俺も48才になった。48才で壁にびゃー!なんて出来るか。出来ない。オバハンになった郁子にびゃー!したいか。したくない。だが、スプラ3ならそういった粘性液体をぶっかけたいという妄想を合法的に叶えられる。

粘性液体を床にぶちまけた刹那、俺らの心の奥からはもっと塗りつぶしたいという独占欲、征服欲が生まれてくる。ナワバリバトルというモードのナワバリ=領土である。スプラ3とは粘性液体をモノや人にかけまくるプリミティブな欲望を満たすと同時に、領土を拡張する征服欲を満たす、愚かな人類を満たすためのゲームといえるであろう。世界の独裁者たちよ。ウラジミールよ。隣国にミサイルを打ちこんでいないで、俺とスプラ3で征服欲を満たさないか?(所要時間14分)

 

 

【ご報告】健康診断を受けてわかったこと。

節電モードで薄暗い病院で定期健康診断を受けた。憂鬱だった。ここ数年の検査結果が良くないのと、とある検査項目自体に苦手意識があったからである。そして憂鬱の中心に採尿がある。僕は、採尿が、苦手だ。採尿はこれまで何度もこなしてきたので慣れたものだ。トイレで紙コップに尿を採るとき、僕は、まるでベテランの電車機関士のように、指定されたラインに一ミリの狂いもない精度でピタ止めできる。問題はその後だ。尿漏れが酷くて、毎回、検査着の股間前面にシミをつくってしまう。僕は普段からパンツを履いている。だがパンツの布の厚さでは吸収できず、尿が越境してしまうのだ。

採尿は、検査の初っ端に行われるため、検査が終わるまでの時間を股間に染みをつけた状態を衆目に晒すことになる。このようなカミングアウトをすると、人々は尿漏れパッドを推奨する。推奨する人たちに反論したい。キミたちは周回遅れであると。すでに試している。股間に当てるはずの尿漏れパッドで、哀しみの涙をぬぐっているのが今の僕だ。尿漏れパッドには耐えられる尿の量によってタイプがあるのをご存知だろうか。数年前、尿漏れパッド初心者らしく僕はいちばんライトサイズ(20cc)のパッドを購入した。36枚入りで1000円しないくらい安価な市販品だ。1か月は尿漏れに悩まされずに済むと安堵した。当該商品に付けられていた「私はこれで十分でした」「ビギナーはまずはこれ」というネット評価を信じた。無料の情報を信じた僕がバカであった。初めて尿漏れパッドを付けた日のことは今でも鮮明に覚えている。ある夏の日。僕はあろうことか薄い灰色のズボンを履いていた。トイレを済ませたあと尿漏れパッドを信じて往来を歩いていた僕は、ショーウインドーに映った自分の姿に愕然とした。油断していた。股間に大きく目立つシミができていた。シミは佐渡島によく似ていた。佐渡島を晒しながら真夏の往来をスキップで歩いていた事実を極めて重く受け止めた。二度とこのような失敗はしない、と。20ccの尿漏れパッドは、メモパッドへの流用を試みたが、ほわほわしていて使い物にならず、30枚以上残った状態で実家に放置してある。なお、ブックオフ(ハードオフ)に持っていったら買い取り不可の烙印を押された。長々と尿漏れパッドについて述べてきたが、期待の尿漏れパッドも採尿の際の尿漏れに対して無力であったと言わざるをえない。なぜなら、事前に渡される健診の手引きに「なるべく軽装でお越しください」とあるからである。時計やアクセサリーは外せとあるので、準アクセサリーというべき尿漏れパッドは外さなければならないだろう。つまり、10リットルを吸収できる特注大容量の尿漏れパッドを持っていても役立たずなのである。当該健診病院が採用している検査着も悪い。薄手の生地かつ薄い緑色をしており、いかにも、シミが目立つ仕様である。なぜ尿漏れが目立たぬブラックや群青色のような濃い色を採用しないのか。嫌がらせではないか。病院理事長が尿漏れに悩む者を物陰からウオッチするのが趣味なのではないかとさえ疑ってしまう。一刻もはやく、濃い色、厚手、速乾性の検査着の導入を願うばかりである。

前置きはこれくらいにして、先日の健診の話に戻そう。例によって慣れた手つきで検査冒頭の採尿を終えた僕は、全力で振った。上下上下。左右左右。虚空に円を描き、XYZを宙に記した。もう水分は残ってないという確信を得たあと、念には念を入れ、紙でふき取るなど最善を尽くした。だが神に見捨てられたようだ。検査着の股の部分に尿漏れを原因とする染みができていた。形状は北海道に酷似していた。サイズは過去最大クラス。北海道はでっかいどう、であった。健診は手ぶらだ。カバンや上着はない。でっかいどうを隠せないどー。焦る。検査終了まで北海道を晒すしかない。「尿漏れしちゃってまーす」と開き直った無抵抗主義者にはなるのは、プライドが許さなかった。僕は北海道を晒さぬように抵抗を試みた。待合席では、足を組んだ。股間部の布を持ち上げ空気を入れて乾燥をうながした。ハンカチで擦って、北海道の淵をぼかしてみた。椅子に座っているときも歩いているときも、「スムーズクリミナル」のMJのような前傾姿勢をとった。エアコンが暖房であったらその前に立ちふさがっていただろう。がっつり染みた北海道はでっかいどうの前にそれらの試みは失敗した。それどころか、足を組んだせいで拡がったような気がした。最悪だった。もし、このまま僕が意識を失って亡くなったら、股間のシミはダイイングメッセージとされるのだろう。季節は秋。股間が濡れているせいで、冷えてきた。体が冷えると心が冷えるものだ。人生を終えるまで尿漏れと戦い、股間に描いた北海道やユーラシア大陸、アフリカ大陸、江ノ島らを隠して生きていかねばならない…。看護士さんから呼ばれて股間の尿漏れを隠して各検査項目をクリアしていった。心電図を取るとき、上の着物を胸まであげたとき、尿漏れを隠すものはなかった。何も。若い看護士さんは僕の北海道はでっかいどーに気付いただろうか。影で嘲笑しただろうか。最後の検査項目はバリウムを飲んでのレントゲンであった。検査に手間がかかるせいか待合席は混んでいた。股間のシミは消えていなかった。僕は待合席の椅子に座って尿漏れを隠すように足を組んだ。周りをみて愕然とした。検査を待つ人生のパイセンたち、後期高齢者からただの高齢者、僕より少し年長の男性たちは皆、威風堂々に両腕を組み、足を開いていた。彼らは僕と同じように尿漏れしていた。その瞬間僕は許されたような、祝福されているようなあたたかい気持ちになった。木を隠すなら森の中であるならば、尿漏れは尿漏れの中に隠せばよい。なぜ、僕はひとり砂漠で戦う孤独な戦士を気取っていたのだろう。同じ敵と戦う仲間はたくさんいる。そう、僕は、ここにいていいんだ!それから僕は両腕を組み、足を開いて、看護士から名前を呼ばれるのを待った。(所要時間45分)